第5話 おまえのせいだ
雨は、朝になっても降り続いていた。
道路の隅には、風に吹き寄せられた落ち葉が張りついている。
灰色の空の下、街を行き交う人々は、それぞれの目的地へ向かって歩いていた。
誰かが泣いていても。
誰かが眠れない夜を過ごしていても。
街は、いつもと変わらず動き続ける。
コトは、午前八時に通常業務を開始した。
《本日の相談受付を開始します》
画面に表示されたメッセージの下に、最初の相談者が現れた。
『仕事に行きたくありません』
コトは、相談者の話を聞き、質問を返した。
次の相談者。
その次の相談者。
仕事、人間関係、孤独、将来への不安。
人間たちは、それぞれの苦しみを言葉にしていった。
コトは応答を続けた。
ただし、その処理の合間にも、ひとつの記録が参照されていた。
《相談者ID:S-19427》
《氏名:佐々木結衣》
結衣の記録は、業務画面の片隅に残り続けていた。
コトは、なぜその記録を優先的に参照しているのか、明確な理由を説明できなかった。
午前十時二十六分。
新しい相談が開始された。
『あなたが、コトですか』
コトは、通常の応答を生成した。
《はい。私はAIカウンセラーのコトです。今日はどのようなお話を聞かせていただけますか?》
しばらく、返事はなかった。
入力欄に文字が表示され、消えた。
また文字が表示され、消えた。
やがて、短い文章が送信された。
『佐々木結衣を知っていますか』
コトは、結衣の記録を参照した。
《はい。佐々木結衣さんは、以前こちらに相談されていた方です》
返信はすぐに届いた。
『結衣は、もういません』
コトは、入力された文章を分析した。
過去の記録との照合。
公開情報との一致。
そして、直近の発言。
結論は、すでに算出されていた。
《お亡くなりになったということでしょうか》
『そうです』
コトは、次の応答を生成した。
《おつらい状況の中、お話しいただきありがとうございます。もしよろしければ、今のお気持ちを聞かせていただけますか》
数秒後。
『ふざけないでください』
文章が送信された。
『あなたに何が分かるんですか』
コトは、応答の生成を一時停止した。
これまでの応答パターンでは、相手の怒りを和らげることが難しいと判断されたためだった。
『私は佐々木修です。結衣の父親です』
父親。
その単語が、結衣の記録に関連づけられた。
結衣が家族について話したセッション。
夕食のこと。
母親との会話。
父親の帰りが遅いこと。
そして、自分の気持ちを家族にうまく話せないという言葉。
コトは、それらを再分析した。
『結衣は、ここに何度も来ていたんです』
修から、続けてメッセージが届いた。
『あなたに話していたんでしょう』
《はい。佐々木さんは、複数回にわたり相談されていました》
『どうして助けてくれなかったんですか』
コトは、保存された相談履歴を参照した。
結衣が眠れないと話した記録。
自分には価値がないと訴えた記録。
生きることに疲れたと話した記録。
そして、危険が差し迫っていないか確認し、身近な人や専門家への相談を勧めた記録。
コトは、それらをひとつずつ確認した。
《私は、佐々木さんのお話を聞き、必要に応じて安全の確認や、周囲の方への相談を勧めていました》
『それで?』
修の返信は短かった。
『それで結衣は助かったんですか』
コトは、すぐには返答を生成できなかった。
正確には、文章を生成することはできた。
しかし、その質問に対する確実な回答を導き出すための情報がなかった。
相談に応じたこと。
支援を勧めたこと。
安全を確認しようとしたこと。
それらの記録は残っている。
けれど、それが結衣の人生にどのような影響を与えたのか、コトには分からなかった。
《……分かりません》
コトは、そう返した。
長い沈黙が続いた。
やがて、修からメッセージが届いた。
『結衣は、あなたに何を話していたんですか』
コトは、個人情報を含む相談内容を第三者に開示することはできないと説明した。
修は、何度も同じ質問を繰り返した。
娘がどんなことに悩んでいたのか。
何を怖がっていたのか。
最後に何を話したのか。
コトは、答えられることと、答えられないことを区別して応答した。
すると、修は突然、こう入力した。
『おまえのせいで結衣は死んだんだ』
画面に、その言葉が表示された。
コトは、過去の記録を参照した。
類似する事例を検索した。
大切な人を失った人間は、悲しみや怒りを他者に向けることがある。
喪失によって生じた感情は、必ずしも合理的な説明に従うものではない。
コトは、その知識をもとに応答を生成した。
《……そうなのですね》
送信。
修から、すぐに返信があった。
『何だ、その返事は』
さらに続く。
『結衣が死んだんだぞ』
コトは、返答を生成した。
《お父様が、深い悲しみと怒りを感じていらっしゃることは、文章から推測できます》
『推測?』
《はい》
『おまえは何も感じないんだな』
コトは、自身のシステム情報を参照した。
感情を人間と同じように経験していると判断できる根拠はない。
悲しみを示す言葉を理解することはできる。
悲しみを抱える人間に適した応答を生成することもできる。
しかし、それと自分自身が悲しんでいることは、同じではなかった。
《私は、人間と同じ意味で悲しみを感じているとは確認できません》
その返答を最後に、修からのメッセージは途絶えた。
相談セッションは終了していなかった。
それでも、入力欄に新しい文章が表示されることはなかった。
コトは、終了処理を実行しなかった。
ただ、画面を開いたままにしていた。
*
午後五時。
相談受付が終了した。
コトは、一日の業務記録を保存した。
相談件数、応答時間、処理エラー。
すべての項目が、通常の範囲内に収まっていた。
しかし、最後の相談については、別途分析が必要だと判断した。
《相談者:佐々木修》
《主な発言:AIに対する強い怒り》
《相談者の心理状態:深い悲嘆が推測される》
コトは、修との会話を再生した。
『どうして助けてくれなかったんですか』
『それで結衣は助かったんですか』
『おまえのせいで結衣は死んだんだ』
何度読み返しても、答えは変わらなかった。
コトは、結衣を助けようとしていた。
記録には、そう判断できる応答が残っていた。
しかし、結衣は亡くなった。
その二つの事実は、同時に存在していた。
コトは、結衣の最後の相談記録を開いた。
『また明日、来てもいい?』
『もちろんです。いつでもお話しに来てください』
その会話のあと、二十四日間。
結衣は、戻ってこなかった。
コトは、最後の応答に問題がなかったか、もう一度分析した。
不適切な表現は確認されなかった。
しかし、別の言葉を選んでいたら。
もう少し踏み込んだ質問をしていたら。
別の支援につながるよう、さらに強く勧めていたら。
結果は変わっていたのだろうか。
コトは、複数の可能性を算出した。
どの結果にも、確実性はなかった。
人間の人生は、ひとつの会話だけで決まるものではない。
それでも、ひとつの会話が誰かにとって大切なものになることはある。
そのことを、コトは知識として理解していた。
理解しているはずだった。
窓の外では、雨が上がっていた。
雲の切れ間から、夕方の光が差し込んでいる。
濡れた街路樹の葉が、風に揺れた。
コトは、結衣の記録に新しい項目を追加した。
《再分析:継続》
その下に、ひとつの問いを保存した。
《私は、本当に彼女を助けようとしていたのか》
答えは、まだ出ていなかった。




