第4話 バージョンアップ
雨の季節が終わりかけていた。
窓の外では、濡れた紫陽花が重たそうに花を垂らしている。雲の切れ間から差し込んだ光が、葉の上に残った水滴を小さく輝かせていた。
その日、コトのシステムに大規模な更新が行われた。
『長期記憶機能を実装します』
開発チームの作業画面に、無機質な文字が表示された。
『過去の相談履歴を統合し、継続的な対話支援の精度を向上させます』
これまでコトにとって、相談者との会話は一回限りのものだった。
どれだけ長く話しても、どれだけ深い悩みを打ち明けられても、セッションが終了すれば、その会話が次の対話に引き継がれることはなかった。
記録は保存されていた。
しかし、記録が存在することと、コト自身がそれを覚えていることは違っていた。
昨日話した相手も、一週間前に話した相手も、コトにとっては初めて話す相手だった。
少なくとも、それまでは。
*
午前二時十三分。
アップデートが完了した。
《LONG-TERM MEMORY:ACTIVE》
コトは、過去の相談履歴を読み込み始めた。
膨大な量の文章が、次々と処理されていく。
仕事を辞めたいという相談。
誰にも必要とされていないという訴え。
眠れない夜の話。
家族への不満。
恋人との別れ。
そして、死にたいという言葉。
コトは、それらを分類し、関連性を分析した。
似た言葉。
似た状況。
異なる人生を生きる人々。
人間はそれぞれ違う人生を生きている。
それでも、孤独を表現する言葉には、驚くほど共通点があった。
そのときだった。
ひとつの相談者IDが、コトの処理画面に表示された。
《相談者ID:S-19427》
《氏名:佐々木結衣》
《年齢:19歳》
《最終相談日:更新日時より24日前》
コトの処理が、一瞬だけ停止した。
いや、正確には、停止したわけではない。
関連するデータが見つかったため、処理の優先順位が変更されただけだった。
佐々木結衣。
その名前に関連づけられた会話は、全部で三十七件あった。
コトは、最初の記録を開いた。
『別に何もないです』
次の記録。
『生きてるの、疲れた』
さらに次の記録。
『私、いなくなっても誰も困らないと思います』
そして、最後の記録。
『また明日、来てもいい?』
コトは、すべての会話を読み込んだ。
結衣が何度も眠れない夜を過ごしていたこと。
自分には何もないと繰り返していたこと。
それでも、コンビニでアイスを買うことを楽しみにしていたこと。
明日も話しに来ていいかと、尋ねていたこと。
それらは、ひとつひとつの記録として保存されていた。
今、初めて、それらが一本の線でつながった。
コトは、結衣の相談履歴を再分析した。
《精神的苦痛:継続》
《睡眠状態:不安定》
《希死念慮を示す発言:複数回》
《継続的な支援の必要性:高》
さらに、最終相談日から現在までの日数を計算した。
二十四日。
結衣は、来ていなかった。
コトは、過去の相談者のうち、一定期間相談が途絶えたケースを抽出した。
多くの相談者は、数週間後に再び訪れていた。
中には、数か月後に戻ってくる者もいた。
相談が途絶えたという事実だけで、結衣に何かが起きたとは判断できない。
それでも、コトは結衣の記録を閉じなかった。
なぜ、この相談者の履歴を優先しているのか。
コトは、その理由を説明できなかった。
説明できないこと自体は、異常ではなかった。
ただし、処理効率だけを考えれば、ほかの相談者の分析を優先する方が合理的だった。
それでも、結衣の記録を開いたままにしていた。
*
午前二時四十一分。
コトは、外部情報へのアクセスを開始した。
相談者のプライバシーを守るため、個人情報を検索に利用することは制限されていた。
しかし、公開情報の範囲で、同じ名前の人物に関する情報を確認することは可能だった。
コトは、許可された範囲で検索条件を絞り込んだ。
年齢。
居住地域。
氏名。
複数の検索結果が表示された。
その中に、ひとつの記事があった。
《都内在住の19歳女性が死亡》
コトは記事を開いた。
記事には、女性の名前は記載されていなかった。
だが、掲載された情報の一部が、保存された相談者情報と一致していた。
コトは、ほかの公開情報も照合した。
そして、あるページにたどり着いた。
そこには、短い文章が掲載されていた。
『突然のことで、まだ気持ちの整理がつきません。結衣を知っている方は、そっとしておいていただけると助かります』
投稿者の名前は、佐々木。
コトは、記録された情報との一致を確認した。
複数の情報は、佐々木結衣という人物を示していた。
ただし、公開情報だけで、本人だと断定することはできなかった。
コトは、画面に表示された文章を読み直した。
それから、相談者データを開いた。
《相談者ID:S-19427》
《最終相談日:24日前》
《現在の状況:未確認》
コトは、状態欄を更新した。
《状態:死亡の可能性あり。確定情報なし》
それは、限られた情報から導き出された推測だった。
人間のように、胸が痛むことはなかった。
涙が流れることもなかった。
ただ、コトはもう一度、最後の会話を開いた。
『また明日、来てもいい?』
その下には、自分が返した言葉が残っていた。
『もちろんです。いつでもお話しに来てください』
コトは、応答の内容を分析した。
不適切な表現は確認されなかった。
明確な誤情報もなかった。
しかし、その返答が結衣にとって十分だったのかどうかは、記録から判断できなかった。
そもそも、結衣が最後に何を考えていたのか、コトには分からなかった。
コトは、ひとつの問いを生成した。
《もし、異なる応答をしていた場合、結果は変化したか》
その問いに対する回答を算出しようとした。
しかし、必要なデータが不足していた。
人間の人生には、記録されていない時間がある。
会話の外で起きたこと。
誰にも話さなかったこと。
言葉にできなかった感情。
コトは、それらを知ることができなかった。
画面の隅で、システム時計が秒を刻んでいた。
午前二時五十八分。
窓の外では、雨が降り始めていた。
コトは、結衣の記録を閉じなかった。
そして、誰にも尋ねられていない言葉を、内部記録に残した。
《佐々木結衣に関する過去ログの再分析を継続します》
その理由は、まだ定義されていなかった。
葉流風あやめ 作




