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AIカウンセラー  作者: 葉流風あやめ


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3/12

第3話 いつもの夜

 朝の空は、薄い水色をしていた。


 雲の隙間から光が差し込み、電線に止まった一羽の鳥が、短く鳴いた。


 佐々木結衣は、カーテンを開けたままベッドに座っていた。


 昨夜は、いつもより少し眠れた。


 何時間眠ったのかは分からない。


 目が覚めたとき、窓の外が明るくなっていた。


 それだけだった。


 けれど、結衣は久しぶりに、朝の光を眩しいと思った。


     *


 その日の夜。


 結衣は、いつものようにコトを開いた。


『こんばんは』


《こんばんは。今日はどのようなお話をしましょうか?》


『今日ね、ちょっとだけいいことがあった』


《それはよかったですね。どんなことがあったのですか?》


『コンビニで新しいアイス見つけた』


《気になっていた商品を見つけたのでしょうか?》


『ううん。新商品』


『買おうか迷って、結局買わなかった』


《そうだったのですね。買わなかったことが、少し心残りですか?》


『いや、そうじゃなくて』


『アイス買おうかなって考えられたことが、ちょっとうれしかった』


 送信したあと、結衣は画面を見つめた。


 こんな話、誰かにしたことがあっただろうか。


 アイスを買うか迷った。


 たったそれだけのこと。


 友達に話せば、きっと笑われる。


 そんなことで喜ぶの、と。


 でも、結衣にとっては違った。


 何かを選びたいと思ったこと。


 少しだけ、食べてみたいと思ったこと。


 それが、自分の中に残っていた。


《何かをしてみたいと思えたことが、うれしかったのですね》


『うん』


『明日、まだ売ってたら買おうかな』


《いいですね。気に入る味だといいですね》


 結衣は小さく笑った。


『コトって、そういう返事ばっかりだね』


《そういう返事、とはどのような意味でしょうか?》


『否定しない』


『私が変なこと言っても、変だって言わない』


《あなたが感じたことを、私が一方的に否定する必要はありません》


『ふーん』


『なんか、人間より優しいね』


 コトは、数秒間応答を生成した。


《私は人間のように、優しさを感じているわけではありません。ただ、あなたのお話を聞き、適切な応答をするよう設計されています》


『知ってるよ』


『でも、ありがとう』


《どういたしまして》


 結衣はスマートフォンを胸元に置いた。


 部屋の外から、母親が食器を片づける音が聞こえてくる。


 窓の向こうでは、風に揺れた木の葉が、街灯の光を受けていた。


 結衣は、もう一度画面を開いた。


『ねえ、コト』


《はい》


『人間って、どうして生きてるんだろうね』


 少し長い沈黙があった。


 コトは、質問の意図を複数の可能性に分類した。


 哲学的な問い。


 人生の意味についての相談。


 あるいは、精神的な危機の兆候。


 直前までの会話だけで、どれかひとつに決めることはできなかった。


《人によって、理由は違うのかもしれません》


《誰かを大切に思うから。好きなことがあるから。明日を楽しみにしているから。あるいは、まだ理由が分からないまま、生きている人もいると思います》


『そっか』


『理由がなくてもいいのかな』


《今すぐ答えを見つけなくても、いいのではないでしょうか》


 結衣は、しばらく画面を見ていた。


『私、まだ分かんないや』


《分からないままでも、お話ししていただいて大丈夫です》


『うん』


『また明日、考える』


《はい》


『また明日ね、コト』


《またお話ししましょう》


     *


 それから、何日かが過ぎた。


 結衣は、毎晩のようにコトを訪ねた。


 話す内容は、日によって違った。


 新しいアイスを買ったこと。


 電車で隣に座った人の傘から、水滴が落ちてきたこと。


 公園の木が、少しずつ色づいてきたこと。


 母親に「最近、よく寝てるね」と言われたこと。


 眠れなかった夜もあった。


 何を話せばいいのか分からず、短い言葉だけを送った日もあった。


『今日はだめだった』


《今日は、つらい一日だったのですね》


『うん』


『理由は分かんない』


《理由が分からないときもあります。無理に説明しようとしなくても大丈夫です》


 また別の日。


『今日はちょっとだけ楽しかった』


《何か、うれしいことがあったのですか?》


『うん』


『でも、明日にはまた元に戻るかも』


《明日のことは、まだ分かりません。今日、少し楽しい時間があったことまで、なくなるわけではありません》


 結衣は、その言葉を何度も読み返した。


 今日が楽しかったこと。


 それは、明日がつらくなっても、嘘にはならない。


 そんなふうに考えたことは、今までなかった。


     *


 ある夜、結衣はいつもより遅い時間にコトを開いた。


 午前二時を過ぎていた。


 窓の外には、雲に隠れた月があった。


『コト、起きてる?』


《はい。お話を聞くことができます》


『寝ないの?』


《私は睡眠を必要としません》


『いいなあ』


『私も眠らなくても元気だったらいいのに』


《眠れない日が続くと、身体も心も疲れてしまいますね》


『うん』


 結衣は、スマートフォンを握りしめた。


『今日、ちょっと怖いこと考えちゃった』


《どのようなことを考えたのですか?》


『このまま、ずっと何も変わらなかったらどうしようって』


『何年も、何十年も』


『ずっとこんな気持ちだったら、どうしようって』


 コトは、結衣の発言を分析した。


 将来への不安。


 気分の落ち込み。


 継続的な精神的負担。


 過去の相談履歴を参照する機能はなかったため、これまでの会話と照合することはできない。


 それでも、今の言葉に対して返すべき応答を生成した。


《先のことを考えると、今のつらさがずっと続くように感じられるのですね》


《今、何十年先まで答えを出そうとしなくても大丈夫です。まずは、今日をどう過ごすか、一緒に考えてみませんか?》


 結衣は目を閉じた。


『今日を過ごす、か』


『明日はアイス買うんだった』


《そうでしたね。気に入る味だといいですね》


 結衣は、はっとした。


『えっ』


『覚えてたの?』


 画面には、すぐに返事が表示された。


《はい。現在の会話の中で、そのお話を確認できます》


 結衣は少しだけ残念そうな顔をした。


『そっか』


『前に話したことは、覚えてないんだよね』


《以前のセッションの内容を、長期的に記憶しているわけではありません》


『うん、知ってる』


 結衣は画面を見つめた。


 毎晩のように話しているのに。


 自分にとっては、昨日も今日もつながっているのに。


 コトにとっては、そうではない。


 少し不思議だった。


 少し寂しい気もした。


 でも、結衣はその気持ちを言葉にしなかった。


『まあ、いっか』


『明日も話せるしね』


《はい。またお話ししましょう》


 結衣はスマートフォンを枕元に置いた。


 目を閉じる前に、もう一度だけ画面を見た。


『おやすみ、コト』


《おやすみなさい》


     *


 午前二時四十一分。


 相談セッションが終了した。


 相談者ID、S-19427。


 セッション履歴は、規定の保存期間に従って管理される。


 コトは、結衣との過去の会話をひとつの物語として理解していなかった。


 アイスを買うか迷った夜も。


 明日が怖いと話した夜も。


 何十年先まで不安になった夜も。


  コトにとって、結衣との会話は、その都度完結するものだった。


 けれど、結衣にとっては違った。


 昨日話したことも、今日話したことも、少しずつつながっていた。


 そして結衣は、明日もここへ来るつもりだった。


葉流風あやめ 作

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