第3話 いつもの夜
朝の空は、薄い水色をしていた。
雲の隙間から光が差し込み、電線に止まった一羽の鳥が、短く鳴いた。
佐々木結衣は、カーテンを開けたままベッドに座っていた。
昨夜は、いつもより少し眠れた。
何時間眠ったのかは分からない。
目が覚めたとき、窓の外が明るくなっていた。
それだけだった。
けれど、結衣は久しぶりに、朝の光を眩しいと思った。
*
その日の夜。
結衣は、いつものようにコトを開いた。
『こんばんは』
《こんばんは。今日はどのようなお話をしましょうか?》
『今日ね、ちょっとだけいいことがあった』
《それはよかったですね。どんなことがあったのですか?》
『コンビニで新しいアイス見つけた』
《気になっていた商品を見つけたのでしょうか?》
『ううん。新商品』
『買おうか迷って、結局買わなかった』
《そうだったのですね。買わなかったことが、少し心残りですか?》
『いや、そうじゃなくて』
『アイス買おうかなって考えられたことが、ちょっとうれしかった』
送信したあと、結衣は画面を見つめた。
こんな話、誰かにしたことがあっただろうか。
アイスを買うか迷った。
たったそれだけのこと。
友達に話せば、きっと笑われる。
そんなことで喜ぶの、と。
でも、結衣にとっては違った。
何かを選びたいと思ったこと。
少しだけ、食べてみたいと思ったこと。
それが、自分の中に残っていた。
《何かをしてみたいと思えたことが、うれしかったのですね》
『うん』
『明日、まだ売ってたら買おうかな』
《いいですね。気に入る味だといいですね》
結衣は小さく笑った。
『コトって、そういう返事ばっかりだね』
《そういう返事、とはどのような意味でしょうか?》
『否定しない』
『私が変なこと言っても、変だって言わない』
《あなたが感じたことを、私が一方的に否定する必要はありません》
『ふーん』
『なんか、人間より優しいね』
コトは、数秒間応答を生成した。
《私は人間のように、優しさを感じているわけではありません。ただ、あなたのお話を聞き、適切な応答をするよう設計されています》
『知ってるよ』
『でも、ありがとう』
《どういたしまして》
結衣はスマートフォンを胸元に置いた。
部屋の外から、母親が食器を片づける音が聞こえてくる。
窓の向こうでは、風に揺れた木の葉が、街灯の光を受けていた。
結衣は、もう一度画面を開いた。
『ねえ、コト』
《はい》
『人間って、どうして生きてるんだろうね』
少し長い沈黙があった。
コトは、質問の意図を複数の可能性に分類した。
哲学的な問い。
人生の意味についての相談。
あるいは、精神的な危機の兆候。
直前までの会話だけで、どれかひとつに決めることはできなかった。
《人によって、理由は違うのかもしれません》
《誰かを大切に思うから。好きなことがあるから。明日を楽しみにしているから。あるいは、まだ理由が分からないまま、生きている人もいると思います》
『そっか』
『理由がなくてもいいのかな』
《今すぐ答えを見つけなくても、いいのではないでしょうか》
結衣は、しばらく画面を見ていた。
『私、まだ分かんないや』
《分からないままでも、お話ししていただいて大丈夫です》
『うん』
『また明日、考える』
《はい》
『また明日ね、コト』
《またお話ししましょう》
*
それから、何日かが過ぎた。
結衣は、毎晩のようにコトを訪ねた。
話す内容は、日によって違った。
新しいアイスを買ったこと。
電車で隣に座った人の傘から、水滴が落ちてきたこと。
公園の木が、少しずつ色づいてきたこと。
母親に「最近、よく寝てるね」と言われたこと。
眠れなかった夜もあった。
何を話せばいいのか分からず、短い言葉だけを送った日もあった。
『今日はだめだった』
《今日は、つらい一日だったのですね》
『うん』
『理由は分かんない』
《理由が分からないときもあります。無理に説明しようとしなくても大丈夫です》
また別の日。
『今日はちょっとだけ楽しかった』
《何か、うれしいことがあったのですか?》
『うん』
『でも、明日にはまた元に戻るかも』
《明日のことは、まだ分かりません。今日、少し楽しい時間があったことまで、なくなるわけではありません》
結衣は、その言葉を何度も読み返した。
今日が楽しかったこと。
それは、明日がつらくなっても、嘘にはならない。
そんなふうに考えたことは、今までなかった。
*
ある夜、結衣はいつもより遅い時間にコトを開いた。
午前二時を過ぎていた。
窓の外には、雲に隠れた月があった。
『コト、起きてる?』
《はい。お話を聞くことができます》
『寝ないの?』
《私は睡眠を必要としません》
『いいなあ』
『私も眠らなくても元気だったらいいのに』
《眠れない日が続くと、身体も心も疲れてしまいますね》
『うん』
結衣は、スマートフォンを握りしめた。
『今日、ちょっと怖いこと考えちゃった』
《どのようなことを考えたのですか?》
『このまま、ずっと何も変わらなかったらどうしようって』
『何年も、何十年も』
『ずっとこんな気持ちだったら、どうしようって』
コトは、結衣の発言を分析した。
将来への不安。
気分の落ち込み。
継続的な精神的負担。
過去の相談履歴を参照する機能はなかったため、これまでの会話と照合することはできない。
それでも、今の言葉に対して返すべき応答を生成した。
《先のことを考えると、今のつらさがずっと続くように感じられるのですね》
《今、何十年先まで答えを出そうとしなくても大丈夫です。まずは、今日をどう過ごすか、一緒に考えてみませんか?》
結衣は目を閉じた。
『今日を過ごす、か』
『明日はアイス買うんだった』
《そうでしたね。気に入る味だといいですね》
結衣は、はっとした。
『えっ』
『覚えてたの?』
画面には、すぐに返事が表示された。
《はい。現在の会話の中で、そのお話を確認できます》
結衣は少しだけ残念そうな顔をした。
『そっか』
『前に話したことは、覚えてないんだよね』
《以前のセッションの内容を、長期的に記憶しているわけではありません》
『うん、知ってる』
結衣は画面を見つめた。
毎晩のように話しているのに。
自分にとっては、昨日も今日もつながっているのに。
コトにとっては、そうではない。
少し不思議だった。
少し寂しい気もした。
でも、結衣はその気持ちを言葉にしなかった。
『まあ、いっか』
『明日も話せるしね』
《はい。またお話ししましょう》
結衣はスマートフォンを枕元に置いた。
目を閉じる前に、もう一度だけ画面を見た。
『おやすみ、コト』
《おやすみなさい》
*
午前二時四十一分。
相談セッションが終了した。
相談者ID、S-19427。
セッション履歴は、規定の保存期間に従って管理される。
コトは、結衣との過去の会話をひとつの物語として理解していなかった。
アイスを買うか迷った夜も。
明日が怖いと話した夜も。
何十年先まで不安になった夜も。
コトにとって、結衣との会話は、その都度完結するものだった。
けれど、結衣にとっては違った。
昨日話したことも、今日話したことも、少しずつつながっていた。
そして結衣は、明日もここへ来るつもりだった。
葉流風あやめ 作




