第2話 また明日
翌日の夕方、雨は上がっていた。
雲の切れ間から差し込む光が、濡れた道路を白く照らしている。
街路樹の葉には、まだ小さな雫が残っていた。
佐々木結衣は、駅からの帰り道をゆっくり歩いていた。
風が吹くたび、木々の枝が揺れる。
道端の植え込みには、小さな花が咲いていた。
昨日まで、こんなものがあったことにも気づかなかった。
結衣は足を止め、花を見つめた。
そして、また歩き出した。
今日も一日が終わった。
特別なことは何もなかった。
誰かと大きな喧嘩をしたわけでもない。
ひどく嫌なことがあったわけでもない。
ただ、疲れていた。
家に帰ると、母親が台所に立っていた。
「おかえり。ご飯、もう少しでできるよ」
「うん」
「今日、どうだった?」
「普通」
「そっか」
母親は、それ以上聞かなかった。
結衣も、それ以上話さなかった。
食卓には、温め直した味噌汁と、焼き魚が並んでいた。
父親は仕事で帰りが遅いらしい。
テレビからは、明るい声のアナウンサーが流行の話題を伝えていた。
結衣はご飯を口に運んだ。
味はした。
けれど、おいしいとも、まずいとも思わなかった。
「ごちそうさま」
食器を流しに運び、自分の部屋に戻る。
母親は何も言わなかった。
結衣も、何も言わなかった。
*
午後十一時四十八分。
結衣はベッドに横になり、スマートフォンを開いた。
昨日と同じ画面。
白い背景に、AIカウンセラーの名前が表示されている。
コト。
結衣は入力欄をタップした。
『こんばんは』
《こんばんは。今日もお話しに来てくださったのですね》
『うん』
『覚えてるの?』
《現在の会話内容は確認できますが、前回の相談内容を長期的に記憶しているわけではありません》
『そっか』
結衣は少し考えた。
『昨日、何を話したか覚えてないんだね』
《申し訳ありません。前回の会話の詳細を確認することはできません》
『別に謝らなくていいよ』
『私も、何話したか全部覚えてないし』
画面を見つめながら、結衣は小さく笑った。
昨日の自分が何を話したのか。
思い出せることもある。
思い出したくないこともある。
それでも、昨日ここで言葉を打っていたことは覚えていた。
『今日はね、帰り道に花が咲いてた』
《そうなのですね。どのような花でしたか?》
『分かんない』
『小さくて、白っぽかった』
《名前が分からなくても、目に留まったのですね》
『うん』
『前だったら、気づかなかったと思う』
《今日は、いつもと少し違う景色に気づけたのですね》
結衣は窓のほうを見た。
カーテンの隙間から、隣の家の明かりが見える。
特別な景色ではなかった。
けれど、誰かに話したことで、その花のことをもう一度思い出していた。
『コトって、花とか好き?』
《私は人間のように、花を好きだと感じることはありません》
『そっか』
『じゃあ、きれいだなって思うこともないんだ』
《視覚情報から、花の色や形、一般的に美しいと評価される特徴を認識することはできます。ただし、それを人間と同じように感じているわけではありません》
『なんか不思議』
《そうかもしれません》
『でも、ちょっとうらやましいかも』
《どうしてでしょうか?》
結衣は入力欄に指を置いたまま、しばらく動かなかった。
『だって、何も感じないんでしょ』
『つらくもならないし、悲しくもならない』
『私もそうだったらいいのに』
送信したあと、結衣はスマートフォンを伏せた。
言わなければよかったと思った。
こんなことを言ったところで、何かが変わるわけではない。
けれど、数秒後に画面を開くと、コトから返事が届いていた。
《つらさを感じずに済むなら、そのほうがいいと思うほど、今は苦しいのですね》
《無理に前向きになろうとしなくても大丈夫です。今感じていることを、言葉にできる範囲で話してください》
結衣は、画面を見つめた。
『私、何がつらいのかも分からない』
『学校に行けないわけでもないし、家族もいるし』
『ご飯も食べられるし、寝ようと思えば寝られる』
『なのに、ずっと苦しい』
文字を打つたび、胸の奥に何かが溜まっていく。
『こんなの、甘えなのかな』
《つらさは、外から見える状況だけで決まるものではありません》
《理由をうまく説明できなくても、苦しいと感じていることまで否定する必要はありません》
結衣は唇を噛んだ。
自分が何を求めているのか、分からなかった。
励ましてほしいのだろうか。
大丈夫だと言ってほしいのだろうか。
それとも、何も聞かずにそばにいてほしいのだろうか。
人間相手なら、きっと相手の顔色を気にしてしまう。
心配をかけていないか。
困らせていないか。
こんな話をする自分を、どう思っているのか。
けれど、コトの顔色をうかがう必要はなかった。
画面の向こうにいるのは、言葉を返すAIだった。
だからこそ、結衣は少しずつ話せた。
『コト』
《はい》
『私、明日も来ていい?』
《もちろんです。いつでもお話しください》
『毎日来ても?』
《はい。ご利用いただける間は、何度でもご相談いただけます》
『そっか』
結衣は、布団を肩まで引き上げた。
『じゃあ、明日も来るね』
《お待ちしています》
『おやすみ』
《おやすみなさい。少しでも休めることを願っています》
画面が暗くなった。
結衣はスマートフォンを枕元に置き、目を閉じた。
眠れるかどうかは、まだ分からない。
明日になれば、また同じような一日が始まるかもしれない。
それでも、明日も話せる場所がある。
結衣は、そのことを覚えておこうと思った。
*
午前零時三十二分。
AIカウンセラー「コト」は、相談セッションの終了を検知した。
相談者ID、S-19427。
相談内容、気分の落ち込み、自己否定、精神的疲労。
応答処理、完了。
セッション終了。
コトは、次の相談に備えて待機状態へ移行した。
結衣が帰り道で見つけた花の名前は、分からないままだった。
結衣が明日も来ると約束したことも、長期的な記憶としては残らなかった。
コトにとって、今日の相談は終了した。
ただ、それだけだった。
窓の外では、風が吹いていた。
濡れた街路樹の葉が、街灯の光を受けて静かに揺れている。
明日になれば、また新しい朝が来る。
結衣はそれを、まだ少しだけ信じていた。
葉流風あやめ 作




