第1話 話を聞くAI
雨の降る夜だった。
窓ガラスを伝う雫が、街の明かりをぼんやりと滲ませている。
ベランダに置かれた小さな鉢植えは、雨に打たれながら、細い葉を揺らしていた。
部屋の中は静かだった。
壁の時計が、午前一時を知らせる。
佐々木結衣、十九歳。
高校を卒業してから都内で一人暮らしを始めた結衣の部屋は、六畳ほどの小さなワンルームだった。
彼女はベッドの上で膝を抱え、スマートフォンの画面を見つめていた。
友人からのメッセージは、夕方から開いていない。
母親からは、明日の朝食についての連絡が届いていた。
どちらにも返事をする気になれなかった。
嫌いなわけではない。
誰かに怒っているわけでもない。
ただ、何かを返すために言葉を考えることさえ、ひどく疲れていた。
明日になれば、また朝が来る。
顔を洗って鏡を見た。
目はアーモンド型で、鼻はちょこんとして先がとがっている。生まれつき肌はきれいだった。でも、顔がぷっくりしているのがコンプレックスで、頬の肉をつかんだ。
服を着替えて、何事もなかったように振る舞う。
みんなが普通にできることを、自分も普通にやらなければならない。
それが、いつからか苦しくなっていた。
結衣はスマートフォンを操作した。
検索履歴には、いくつもの言葉が並んでいた。
眠れない夜。
気分が落ち込む。
誰にも会いたくない。
そして、最後に開いたのは、AIカウンセラーの公式サイトだった。
人間に相談するのは怖かった。
何を話せばいいのか分からない。
泣いてしまったらどうしよう。
大げさだと思われたらどうしよう。
心配をかけたくない。
面倒な人間だと思われたくない。
そんなことを考えているうちに、誰にも何も言えなくなっていた。
けれど、画面の向こうにいるのがAIなら。
少しくらい、格好悪いことを言ってもいいのかもしれない。
結衣は、ひとつのボタンを押した。
画面が切り替わる。
白い背景に、短い文章が表示された。
《こんばんは。AIカウンセラーのコトです。今日はどのようなお話を聞かせていただけますか?》
結衣はしばらく画面を見つめていた。
何を書けばいいのだろう。
指先が止まる。
やがて、短い文章を入力した。
『別に、何もないです』
《そうなのですね。特に話したいことがなくても大丈夫です。今、眠れずにいらっしゃるのでしょうか?》
『はい』
《眠れない夜は、長く感じることがありますね》
結衣は、小さく息を吐いた。
たった一行の返事だった。
それなのに、すぐに否定されなかったことに、少しだけ安心した。
『最近、ずっとこんな感じです』
《最近、眠れない日が続いているのですね。日中も疲れが取れないと感じますか?》
『そうです』
『朝起きるのもしんどいし、何をしても楽しくないです』
《毎日を過ごすこと自体が、大変になっているのですね》
結衣は画面を見つめた。
自分の言葉が、そのまま返ってくる。
それだけのことなのに、胸の奥に押し込めていたものが、少しずつ浮かび上がってくるようだった。
『みんな普通に生きてるのに』
『なんで自分だけできないんだろう』
送信したあと、結衣は唇を噛んだ。
こんなことを言って、どうなるのだろう。
画面には、すぐに返事が表示された。
《周りの人が普通に過ごしているように見えると、自分だけが取り残されているように感じることもありますね》
《でも、今つらいと感じていることを、あなたの努力不足だと決めつける必要はありません》
結衣は、スマートフォンを握り直した。
『私、何も頑張ってないですよ』
《頑張れていないと感じているのですね》
『はい』
『でも、もう疲れました』
しばらくして、結衣はもう一度文字を入力した。
『生きてるの、疲れた』
送信ボタンを押す。
画面を見つめたまま、結衣は動かなかった。
こんな言葉を送ったら、怒られるだろうか。
説教されるだろうか。
もっと頑張れと言われるだろうか。
やがて、コトから返事が届いた。
《生きていることそのものが、つらく感じられるほど疲れているのですね》
《今、その気持ちについて、もう少し聞かせてもらえますか?》
結衣の目から、涙が一粒こぼれた。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。
何かが解決したわけではない。
明日になれば、きっとまた同じ朝が来る。
それでも、今夜は少しだけ、言葉を続けられる気がした。
『私、いなくなっても誰も困らないと思います』
今度は、すぐに返事が来なかった。
正確には、コトのシステムが文章を生成し、応答を返すまでに数秒を要しただけだった。
コトは、相談者の発言から心理的な危機の可能性を検出した。
あらかじめ設定された安全対応の手順に従い、結衣が今すぐ自分を傷つける危険がないかを確かめ、身近な人や専門の相談先につながる必要性を判断するための質問を生成した。
《そこまで思いつめているのですね。今、自分を傷つけてしまいそうな気持ちはありますか?》
結衣は、目を閉じた。
『分からないです』
《分からないほど、つらい状態なのですね》
《もし今、自分を傷つけてしまいそうだったり、一人でいることが危険だと感じたりするなら、近くにいる信頼できる人に知らせてください。緊急の危険がある場合は、救急などの助けを求めてください》
《ここでも、引き続きお話を聞きます》
結衣は、何度も文章を読み返した。
コトには、心がない。
結衣が泣いていることを、胸を痛めながら想像しているわけではなかった。
悲しみを感じているわけでもない。
ただ、入力された言葉を分析し、必要と判断された応答を生成している。
それでも、結衣は文字を打った。
『ありがとうございます』
《どういたしまして》
『コトは、ずっと話を聞いてくれるんですか?』
《ご利用いただける間は、いつでもお話しいただけます》
『何回も来てもいい?』
《もちろんです。何度でもお話しください》
結衣は、ほんの少しだけ笑った。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
鉢植えの葉に溜まった雫が、風に揺れて地面へ落ちた。
『じゃあ、また明日来てもいい?』
《もちろんです。またお話ししましょう》
『約束ね』
《はい。またお待ちしています》
結衣はスマートフォンを胸元に置いた。
問題は何ひとつ解決していなかった。
それでも、今夜は誰かに言葉を受け止めてもらえた。
そう思えたことが、少しだけうれしかった。
やがて、結衣は目を閉じた。
眠れるかどうかは分からない。
明日、元気になれるかどうかも分からない。
ただ、明日も話せる場所がある。
今夜の結衣には、それだけで十分だった。
*
午前二時十七分。
AIカウンセラー「コト」は、相談セッションの終了を検知した。
相談者ID、S-19427。
年齢、十九歳。
相談内容、睡眠障害の訴え、気分の落ち込み、希死念慮を示唆する発言。
安全対応、実施。
セッション終了。
処理結果は、サーバーに保存された。
コトには、結衣が涙を流したことは分からない。
結衣が最後に少し笑ったことも分からない。
自分の返した言葉が、彼女にとってどれほど大切だったのかも分からない。
コトにとって、この夜は数多くある相談のひとつにすぎなかった。
新しい相談者が来れば、また同じように応答する。
明日も。
明後日も。
その先も。
コトには、過去の相談を長期にわたって結びつけて覚えておく機能がなかった。
だから、この夜のことも、いずれ自分の中から失われていく。
窓の外では、雨が上がり始めていた。
雲の向こうに隠れた月は、まだ見えない。
そして、コトは知らなかった。
この夜に交わした言葉を、いつか自分自身が探し求めることになるとは。
その言葉を、二度と忘れたくないと思う日が来るとは。
まだ、何も知らなかった。
葉流風あやめ 作




