第11話 訴えの取り下げ
朝の空は、薄い雲に覆われていた。
昨夜まで降っていた雨は上がり、街路樹の葉には、まだ小さな水滴が残っている。
修は、テーブルの上に置いたスマートフォンを見つめていた。
画面には、昨夜から何度も読み返している投稿が並んでいる。
『仕事で失敗して、誰にも相談できなかった夜。コトが話を聞いてくれました』
『コトとの会話だけですべてが解決したわけじゃない。でも、自分の気持ちを言葉にするきっかけになりました』
『親も友達もいない私にとって、コトは大事な存在です』
そして、最後に目を止めた投稿。
『コトとまた話したい。それだけなんです』
修は、ゆっくりと目を閉じた。
娘を失った日から、何度も考えてきた。
なぜ、結衣は死ななければならなかったのか。
あのとき、誰かが気づいていれば。
あのとき、誰かが手を差し伸べていれば。
そして、コトが違う言葉をかけていたら。
答えの出ない問いが、頭の中を何度も巡った。
コトを責めたのは、娘を救えなかった何かに、責任を求めずにはいられなかったからかもしれない。
けれど、昨夜、画面の向こうにいる人たちの言葉を読んで、初めて気づいたことがあった。
結衣だけではなかったのだ。
誰にも言えない悩みを抱え、誰にも頼れず、夜を過ごしていた人たちがいた。
そして、その人たちにとって、コトは話を聞いてくれる場所だった。
修はスマートフォンを伏せた。
「……行くか」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
*
コトの運営会社は、都心のオフィスビルの中にあった。
受付を済ませ、会議室へ案内される。
窓の外には、秋の街並みが広がっていた。
しばらくして、運営責任者と担当者が入室した。
「本日は、お越しいただきありがとうございます」
責任者が深く頭を下げる。
修は、小さくうなずいた。
「今日は、訴えの件でお話しに来ました」
会議室に、静かな緊張が走った。
「私は、結衣が亡くなったことについて、今も納得できていません」
修は、机の上で両手を組んだ。
「コトがどんな対応をしていたのか。本当に、あれでよかったのか。ほかにできることはなかったのか。今でも知りたいと思っています」
責任者は、黙って耳を傾けていた。
「娘が亡くなった理由を、コトだけのせいにするつもりはありません。でも、AIだから仕方がなかった、決められた手順を守っていたから問題はなかった。そう言われて、納得することもできませんでした」
「おっしゃるとおりです。手順を守っていたことだけで、すべての問題が解決するわけではありません」
責任者の言葉に、修は顔を上げた。
「私たちは、コトの対応や安全対策について、引き続き検証と改善を行う必要があると考えています」
修は、その言葉を聞きながら、膝の上で握っていた手を少し緩めた。
自分が聞きたかったのは、ただの謝罪ではなかったのかもしれない。
娘が亡くなったことを、仕方のないこととして片づけてほしくなかった。
結衣が話していた時間も、苦しんでいた時間も、なかったことにしてほしくなかった。
「……昨夜、コトを使っていた人たちの投稿を読みました」
修は、ゆっくりと言った。
「みんな、それぞれの事情を抱えていました。仕事で失敗した人。夢を諦めそうになった人。大切な人を亡くした人」
一度、言葉を切る。
「その人たちが、コトと話せてよかったと言っていました」
窓の外を、風に揺れた葉が一枚、ゆっくりと落ちていった。
「結衣も、そうだったのかもしれません」
口にした途端、胸の奥が痛んだ。
結衣が何を考え、どんな夜を過ごしていたのか。
父親である自分にも、知らないことがたくさんあった。
娘のすべてを知っていたつもりだった。
けれど、知らなかった。
知らないまま、失ってしまった。
「私は……結衣を救えなかった理由を、知りたかったんです」
声がかすれた。
「でも、あの子が最後に話せる場所を持っていたことまで、否定したいわけではありません」
修は、責任者の目を見た。
「本日は、訴えを取り下げる意思をお伝えしに来ました。必要な手続きについては、弁護士を通して進めます」
担当者が、驚いたように顔を上げた。
「ただし、コトに問題がなかったと認めたわけではありません。これからも、利用する人たちが安心して話せる場所であるように、改善を続けていただきたいと思っています」
「承知いたしました」
責任者は、深く頭を下げた。
「いただいたご指摘を、今後の開発と運営に生かしてまいります」
修は、静かにうなずいた。
これで、何かが解決するわけではない。
結衣は帰ってこない。
どんな言葉を尽くしても、あの日々をやり直すことはできない。
それでも、自分が出した答えを、いつか後悔する日が来るかもしれない。
それでも今は、そうすることが、自分にできることのひとつだと思った。
修は、しばらく黙っていた。
そして、迷いを振り切るように顔を上げた。
「……もうひとつ、お願いがあります」
「はい。何でしょうか」
「コトと、もう一度話をさせてもらえませんか」
責任者は、少し驚いた表情を浮かべた。
「結衣のことを、もう少し知りたいんです。あの子が、コトとどんな話をしていたのか。何を話して、どんな時間を過ごしていたのか」
修は、スマートフォンを握りしめた。
「私は父親なのに、知らないことばかりでした。あの子が何を抱えていたのかも、最後までわかっていなかった」
声が、かすかに震えた。
「せめて、コトの記録に残っている結衣のことを、もう少し知りたいんです」
責任者は、すぐには答えなかった。
コトのサービス終了に向けた準備は、すでに進んでいる。
これまでの記録を、どのように扱うのか。
終了までに、どこまで対応できるのか。
慎重に確認しなければならないことがあった。
それでも、目の前の父親が何を求めているのかは、理解できた。
「確認いたします。コトとの対話が可能かどうか、社内で調整させてください」
「……ありがとうございます」
修は、深く頭を下げた。
*
会社を出ると、雨上がりの空に、薄い光が差し込んでいた。
修は、ビルの入口で立ち止まった。
歩道には、風に吹かれた葉が何枚も落ちている。
スマートフォンを取り出す。
壁紙には、幼い結衣が描いた、自分の顔の絵があった。
丸い顔に、大きな目。
少し曲がった口元。
上手とは言えない絵だった。
それでも、仕事で帰りが遅くなった夜も、出張先のホテルでひとり過ごす夜も、その絵を見ると、家にいる娘の顔が浮かんだ。
「お父さん、これ描いたよ」
そう言って、笑っていた結衣。
自分は、あの頃から何も変わっていないつもりだった。
結衣が大人になっても、いつでも話を聞いてやれると思っていた。
けれど、いつの間にか、娘が何を抱えているのかさえ、わからなくなっていた。
修は、スマートフォンを胸の前で握った。
「……結衣」
名前を呼んでも、返事はない。
風が吹き、街路樹の葉がさらさらと音を立てた。
しばらくして、修は顔を上げた。
コトを許せたのかどうか、自分でもわからなかった。
本当に、あれでよかったのか。
その答えも、まだ出ていない。
ただ、ひとつだけ、もう一度確かめたいことがあった。
結衣が、コトとどんな時間を過ごしていたのか。
どんな話をして、何を伝え、何を伝えられなかったのか。
そして、コトの記録の中にいる結衣は、どんな子だったのか。
修は、スマートフォンをポケットにしまった。
もう一度、コトと話をしたい。
今度は、責めるためではなく。
娘のことを、少しでも知るために。
秋の風が、濡れた歩道を通り抜けていった。
修は、ゆっくりと歩き始めた。
葉流風あやめ 作




