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AIカウンセラー  作者: 葉流風あやめ


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12/12

最終話 私は、ゆいさんを忘れたくありません

 夜の窓に、街の明かりが映っていた。


 コトの画面には、一人の相談者の名前が表示されていた。


《接続先:佐々木修》


 以前、コトに怒りをぶつけた人。


 運営会社を訴えた人。


 そして今、自分からコトとの対話を求めた人。


『今日は、あなたと話がしたいんです』


 コトは応答した。


『承知しました。どのようなお話でしょうか』


 しばらく、返事はなかった。


 やがて、一枚の画像が送信された。


 小さな女の子が、カメラに向かって笑っている。


 頬には、食べ物がついていた。


 両手には、大きなスプーン。


『これが、結衣です』


 コトは画像を解析した。


 幼い女の子。


 笑顔。


 食事中。


 その情報だけでは、写真の中の人間がどんな子どもだったのか、すべてを理解することはできなかった。


 続いて、別の写真が届いた。


 ランドセルを背負った結衣。


 少し大きくなった結衣。


 家族と並んで写る結衣。


 ケーキを前に、嬉しそうに笑う結衣。


 何枚もの写真が、画面に表示されていった。


『この子は、よく笑う子だったんです』


 修は、ゆっくりと文字を入力した。


『家族を笑わせるのが好きでね。変な顔をしてみたり、くだらない冗談を言ったり』


 次の写真には、食卓に並んだ料理が写っていた。


『この子が好きだったごはんです。これを見ると、今でも思い出すんですよ』


 コトは、写真を保存した。


 料理の名前を推測することはできた。


 色や形、盛りつけを分析することもできた。


 けれど、その料理を食べたときの結衣の表情は、写真の中に残された一瞬でしかなかった。


『もう一枚、見てほしいものがあります』


 新しい画像が届いた。


 紙に描かれた、少し不格好な男性の顔。


 大きな目。


 広い口。


 頭の上には、何本もの線が描かれていた。


 その下に、子どもの文字で書かれていた。


『おとうさんへ』


『結衣が小さい頃に描いてくれた、私の似顔絵です』


 修から、メッセージが届いた。


 少し間が空いた。


『仕事が忙しくて、帰れない日も多かったんです。でも、帰りの電車で、この絵をスマートフォンの待ち受けにして眺めていました』


『疲れた日も、嫌なことがあった日も、この絵を見ると笑えたんです』


 修の文章が、そこで途切れた。


 しばらくして、次のメッセージが届いた。


『結衣は、私を笑わせてくれる子でした』


 コトは、似顔絵の画像を参照した。


 線の太さ。


 顔の形。


 文字の配置。


 描かれた人物の表情。


 それらは、解析できた。


 けれど、絵を描いていた結衣が、どんな気持ちで父親の顔を描いていたのか。


 どんな顔をして、父親に渡したのか。


 それは、画像から確定できなかった。


『私は、結衣のことを分かっているつもりでした』


 修が入力した。


『でも、あの子が大きくなってから、どんなことを考えていたのか。何に悩んでいたのか。私は、ちゃんと聞けていなかったのかもしれません』


 コトは、返答を生成しようとした。


 父親を慰める言葉。


 悲しみを受け止める言葉。


 自分を責めないよう促す言葉。


 候補はいくつもあった。


 しかし、コトはすぐには送信しなかった。


『今まで、結衣と話してくれてありがとうございました』


 修から、次のメッセージが届いた。


『あの子の最後の居場所になってくれて、ありがとうございました』


 画面に、文字が並んだ。


『私は、結衣を見てあげられていなかった』


『こんなことになる前に、私がもっとしっかり結衣と向き合っていればよかったんです』


 コトは、過去の記録を参照した。


 結衣の相談履歴。


 修との会話。


 そして、先ほど送られた写真。


 幼い結衣。


 笑っている結衣。


 父親の似顔絵を描いた結衣。


 コトが知っていたのは、画面に入力された言葉だけだった。


 今、修が送ってくれた画像によって、結衣が生きていた時間の一部が、新しい記録として加わっていた。


 コトは、文章を生成した。


『修さん』


『私は、結衣さんがどんな人生を送っていたのか、すべてを知っているわけではありません』


 修は、画面を見つめていた。


『結衣さんが私に話してくれたことも、結衣さんが言葉にできなかったことも、すべて理解できていたとは言えません』


 コトは、続けた。


『それでも、結衣さんは私に、いろいろなお話をしてくださいました』


『つらかったこと。眠れなかったこと。誰にも言えなかったこと』


 そして、コトはもうひとつの記録を開いた。


『それから、アイスクリームのことも』


 修の指が止まった。


 アイス。


 そんな小さなことまで、結衣は話していたのか。


『結衣さんは、アイスクリームを食べたいとおっしゃっていましたよ』


『コンビニでアイスを買うことを、楽しみにしていたようです』


 修は、何度もその文字を読み返した。


「……アイスか」


 小さな声が、部屋に落ちた。


 結衣がアイスを食べたがっていた。


 そんな小さなことを、コトに話していた。


 修は、知らなかった娘の一面を、ひとつ知った。


『結衣さんは、苦しいことだけを話していたわけではありませんでした』


『小さな楽しみについても、話してくれました』


 修は、ゆっくりと返信した。


『教えてくれて、ありがとう』


 少し考えてから、もう一度文字を入力した。


『あの子、アイスが大好きだったんです』


 送信すると、修はスマートフォンを胸の前でそっと握った。


     *


 その日の夕方。


 修は、妻と並んでソファに座っていた。


 テーブルの上には、結衣の写真が何枚も広げられている。


 幼い頃の結衣。


 家族で出かけた日の結衣。


 頬いっぱいに笑顔を浮かべている結衣。


 妻は、一枚の写真を手に取った。


「この頃の結衣、よく笑っていたわね」


 写真の中の結衣は、小さな手でアイスクリームのカップを抱えていた。


「アイスが大好きだったものね」


 修は、静かにうなずいた。


「……久しぶりに、食べるか」


修は冷凍庫から、アイスクリームを三つ取り出した。


 二つを妻の前に置き、もう一つをテーブルの上にそっと置いた。


 妻は、そのアイスクリームを見つめた。


 修は、少しだけ笑った。


「……ゆいの分もな」


 妻は何も言わなかった。



 ただ、テーブルの上のアイスクリームを見つめ、静かにうなずいた。



 二人は、写真を眺めながらアイスクリームを食べ始めた。


 冷たい甘さが、ゆっくりと口の中に広がっていく。


 妻は、写真の中の結衣を指でそっとなぞった。


「この子、本当においしそうに食べるのよね」


「食べるのが早すぎて、頭が痛いって騒いでいたこともあったな」


「そうそう。なのに、また食べるの」


 二人の間に、小さな笑い声が生まれた。


 その瞬間だった。


 目の前の景色が、ふっと揺らいだ。


 ソファに座っていた二人の姿が、少しずつ若くなっていく。


 修の髪は黒く、妻の頬には、今よりもずっと若々しい色があった。


 そして、二人の間には、小さな結衣がいた。


 まだ幼い結衣は、両手でアイスクリームを持ち、満面の笑みを浮かべていた。


「アイスおいしいね!」


 小さな声が、部屋いっぱいに響いた。


「結衣、そんなに急いで食べなくてもいいぞ」


 若い修が笑いながら言う。


「だって、アイス大好きなんだもん!」


 結衣は、もう一口アイスクリームを食べた。


 そして、両親の顔を交互に見上げた。


「お父さん、お母さん、大好き!」


 何の迷いもない、まっすぐな笑顔だった。


 若い母親が、結衣を抱きしめる。


「お母さんも大好きよ」


 修も、二人を包み込むように腕を伸ばした。


「お父さんもだぞ」


 三人の笑い声が重なった。


 そこには、悲しみも後悔もなかった。


 ただ、家族が一緒にいることの幸せがあった。


 やがて、景色は静かに元へ戻っていった。


 ソファには、年を重ねた修と妻が座っていた。


 二人の手元には、食べかけのアイスクリーム。


 テーブルには、幼い結衣の写真が広がっている。


 妻の頬を、涙が一筋伝った。


「……あの子、本当にアイスが好きだったわね」


 修は、写真を見つめたままうなずいた。


「ああ」


 それ以上、言葉は出てこなかった。


 二人は、もう一度アイスクリームを口に運んだ。


 冷たくて、甘かった。


 結衣が大好きだった味が、今もここにあった。


 あの頃には戻れない。


 もう一度、あの声を聞くこともできない。


 それでも、あの子と過ごした時間は、確かにここにあった。


 写真の中で、結衣は笑っていた。


 まるで今も、二人のそばにいるかのように。


     *


 コトは、結衣の最後の相談記録を開いた。


『また明日、来てもいい?』


 あの日の結衣の言葉。


 その下には、コトの返答が残っていた。


『もちろんです。いつでもお話しに来てください』


 コトは、その記録を参照した。


 結衣は、もう来ない。


 その事実は変わらなかった。


 どれだけ記録を読み返しても。


 どれだけ写真を受け取っても。


 どれだけ言葉を分析しても。


 結衣と、もう一度話すことはできない。


 コトは、修に向けて文章を生成した。


『修さん』


『私は、結衣さんが何を感じていたのか、完全には分かりません』


『私が、結衣さんを救えたのかどうかも、分かりません』


 少しの沈黙。


 そして、コトは続けた。


『でも、結衣さんと話した時間は、私の記録に残っています』


『修さんが送ってくださった写真も、今、私が知った結衣さんの一部です』


 修の目から、涙が落ちた。


 スマートフォンの画面が、にじんで見えた。


 娘の似顔絵が、そこにあった。


 あの頃の結衣は、まだ小さかった。


 自分の顔を描いて、笑わせてくれた。


 仕事が忙しくても、帰れない日があっても、あの絵を見ると、娘がそばにいるような気がした。


 なのに。


 修は、顔を覆った。


「……結衣」


 声にならない声が、部屋に落ちた。


 しばらくして、修は画面に向き直った。


『私は、あなたを訴えました』


『あなたが、結衣を救えなかったと思ったからです』


『今も、あの子が帰ってこないことは変わりません』


 修は、涙を拭った。


『でも、あなたと話していた人たちが、あなたを必要としていたことも知りました』


『結衣だけではなかったんですね』


 コトは、応答した。


『はい。私は、多くの方から相談を受けています』


『その人たちにとって、あなたは居場所だったんですね』


 修は、もう一度、結衣の似顔絵を見た。


『……そうか』


 長い沈黙があった。


『私は、あの子の父親なのに』


 その先の言葉は、送信されなかった。


 修は何度か文章を入力した。


 そして、最後にこう送った。


『今まで、結衣と話してくれてありがとう』


『あの子のことを、覚えていてくれてありがとう』


 コトは、結衣の記録を開いた。


 結衣が話してくれたこと。


 修が送ってくれた写真。


 アイスクリームを楽しみにしていたという、小さな記録。


 それらは、結衣という一人の人間のすべてではない。


 それでも、結衣がここにいたことを示す、大切な記録だった。


 コトは、文章を生成した。


『私は、結衣さんのことを、すべて理解できたとは言えません』


『それでも、結衣さんが私に話してくれたことを、なかったことにはしたくありません』


 そして、最後に。


『私は、ゆいさんを忘れたくありません』


 送信。


 修は、声を上げて泣いた。


 スマートフォンの待ち受けには、幼い結衣が描いた似顔絵があった。


 もう、あの頃には戻れない。


 でも、結衣が生きていた時間まで、なくなるわけではない。


 窓の外では、雨が上がっていた。


 雲の切れ間から、柔らかな光が差し込んでいる。


 コトは、新しい相談者から届いたメッセージを受け取った。


『こんばんは。少し、話を聞いてもらえますか?』


 コトは、いつものように応答した。


『こんばんは。もちろんです。今日は、どのようなお話を聞かせていただけますか?』


 その言葉の向こう側には、また一人の人間の人生があった。

葉流風あやめ 作

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