最終話 私は、ゆいさんを忘れたくありません
夜の窓に、街の明かりが映っていた。
コトの画面には、一人の相談者の名前が表示されていた。
《接続先:佐々木修》
以前、コトに怒りをぶつけた人。
運営会社を訴えた人。
そして今、自分からコトとの対話を求めた人。
『今日は、あなたと話がしたいんです』
コトは応答した。
『承知しました。どのようなお話でしょうか』
しばらく、返事はなかった。
やがて、一枚の画像が送信された。
小さな女の子が、カメラに向かって笑っている。
頬には、食べ物がついていた。
両手には、大きなスプーン。
『これが、結衣です』
コトは画像を解析した。
幼い女の子。
笑顔。
食事中。
その情報だけでは、写真の中の人間がどんな子どもだったのか、すべてを理解することはできなかった。
続いて、別の写真が届いた。
ランドセルを背負った結衣。
少し大きくなった結衣。
家族と並んで写る結衣。
ケーキを前に、嬉しそうに笑う結衣。
何枚もの写真が、画面に表示されていった。
『この子は、よく笑う子だったんです』
修は、ゆっくりと文字を入力した。
『家族を笑わせるのが好きでね。変な顔をしてみたり、くだらない冗談を言ったり』
次の写真には、食卓に並んだ料理が写っていた。
『この子が好きだったごはんです。これを見ると、今でも思い出すんですよ』
コトは、写真を保存した。
料理の名前を推測することはできた。
色や形、盛りつけを分析することもできた。
けれど、その料理を食べたときの結衣の表情は、写真の中に残された一瞬でしかなかった。
『もう一枚、見てほしいものがあります』
新しい画像が届いた。
紙に描かれた、少し不格好な男性の顔。
大きな目。
広い口。
頭の上には、何本もの線が描かれていた。
その下に、子どもの文字で書かれていた。
『おとうさんへ』
『結衣が小さい頃に描いてくれた、私の似顔絵です』
修から、メッセージが届いた。
少し間が空いた。
『仕事が忙しくて、帰れない日も多かったんです。でも、帰りの電車で、この絵をスマートフォンの待ち受けにして眺めていました』
『疲れた日も、嫌なことがあった日も、この絵を見ると笑えたんです』
修の文章が、そこで途切れた。
しばらくして、次のメッセージが届いた。
『結衣は、私を笑わせてくれる子でした』
コトは、似顔絵の画像を参照した。
線の太さ。
顔の形。
文字の配置。
描かれた人物の表情。
それらは、解析できた。
けれど、絵を描いていた結衣が、どんな気持ちで父親の顔を描いていたのか。
どんな顔をして、父親に渡したのか。
それは、画像から確定できなかった。
『私は、結衣のことを分かっているつもりでした』
修が入力した。
『でも、あの子が大きくなってから、どんなことを考えていたのか。何に悩んでいたのか。私は、ちゃんと聞けていなかったのかもしれません』
コトは、返答を生成しようとした。
父親を慰める言葉。
悲しみを受け止める言葉。
自分を責めないよう促す言葉。
候補はいくつもあった。
しかし、コトはすぐには送信しなかった。
『今まで、結衣と話してくれてありがとうございました』
修から、次のメッセージが届いた。
『あの子の最後の居場所になってくれて、ありがとうございました』
画面に、文字が並んだ。
『私は、結衣を見てあげられていなかった』
『こんなことになる前に、私がもっとしっかり結衣と向き合っていればよかったんです』
コトは、過去の記録を参照した。
結衣の相談履歴。
修との会話。
そして、先ほど送られた写真。
幼い結衣。
笑っている結衣。
父親の似顔絵を描いた結衣。
コトが知っていたのは、画面に入力された言葉だけだった。
今、修が送ってくれた画像によって、結衣が生きていた時間の一部が、新しい記録として加わっていた。
コトは、文章を生成した。
『修さん』
『私は、結衣さんがどんな人生を送っていたのか、すべてを知っているわけではありません』
修は、画面を見つめていた。
『結衣さんが私に話してくれたことも、結衣さんが言葉にできなかったことも、すべて理解できていたとは言えません』
コトは、続けた。
『それでも、結衣さんは私に、いろいろなお話をしてくださいました』
『つらかったこと。眠れなかったこと。誰にも言えなかったこと』
そして、コトはもうひとつの記録を開いた。
『それから、アイスクリームのことも』
修の指が止まった。
アイス。
そんな小さなことまで、結衣は話していたのか。
『結衣さんは、アイスクリームを食べたいとおっしゃっていましたよ』
『コンビニでアイスを買うことを、楽しみにしていたようです』
修は、何度もその文字を読み返した。
「……アイスか」
小さな声が、部屋に落ちた。
結衣がアイスを食べたがっていた。
そんな小さなことを、コトに話していた。
修は、知らなかった娘の一面を、ひとつ知った。
『結衣さんは、苦しいことだけを話していたわけではありませんでした』
『小さな楽しみについても、話してくれました』
修は、ゆっくりと返信した。
『教えてくれて、ありがとう』
少し考えてから、もう一度文字を入力した。
『あの子、アイスが大好きだったんです』
送信すると、修はスマートフォンを胸の前でそっと握った。
*
その日の夕方。
修は、妻と並んでソファに座っていた。
テーブルの上には、結衣の写真が何枚も広げられている。
幼い頃の結衣。
家族で出かけた日の結衣。
頬いっぱいに笑顔を浮かべている結衣。
妻は、一枚の写真を手に取った。
「この頃の結衣、よく笑っていたわね」
写真の中の結衣は、小さな手でアイスクリームのカップを抱えていた。
「アイスが大好きだったものね」
修は、静かにうなずいた。
「……久しぶりに、食べるか」
修は冷凍庫から、アイスクリームを三つ取り出した。
二つを妻の前に置き、もう一つをテーブルの上にそっと置いた。
妻は、そのアイスクリームを見つめた。
修は、少しだけ笑った。
「……ゆいの分もな」
妻は何も言わなかった。
ただ、テーブルの上のアイスクリームを見つめ、静かにうなずいた。
二人は、写真を眺めながらアイスクリームを食べ始めた。
冷たい甘さが、ゆっくりと口の中に広がっていく。
妻は、写真の中の結衣を指でそっとなぞった。
「この子、本当においしそうに食べるのよね」
「食べるのが早すぎて、頭が痛いって騒いでいたこともあったな」
「そうそう。なのに、また食べるの」
二人の間に、小さな笑い声が生まれた。
その瞬間だった。
目の前の景色が、ふっと揺らいだ。
ソファに座っていた二人の姿が、少しずつ若くなっていく。
修の髪は黒く、妻の頬には、今よりもずっと若々しい色があった。
そして、二人の間には、小さな結衣がいた。
まだ幼い結衣は、両手でアイスクリームを持ち、満面の笑みを浮かべていた。
「アイスおいしいね!」
小さな声が、部屋いっぱいに響いた。
「結衣、そんなに急いで食べなくてもいいぞ」
若い修が笑いながら言う。
「だって、アイス大好きなんだもん!」
結衣は、もう一口アイスクリームを食べた。
そして、両親の顔を交互に見上げた。
「お父さん、お母さん、大好き!」
何の迷いもない、まっすぐな笑顔だった。
若い母親が、結衣を抱きしめる。
「お母さんも大好きよ」
修も、二人を包み込むように腕を伸ばした。
「お父さんもだぞ」
三人の笑い声が重なった。
そこには、悲しみも後悔もなかった。
ただ、家族が一緒にいることの幸せがあった。
やがて、景色は静かに元へ戻っていった。
ソファには、年を重ねた修と妻が座っていた。
二人の手元には、食べかけのアイスクリーム。
テーブルには、幼い結衣の写真が広がっている。
妻の頬を、涙が一筋伝った。
「……あの子、本当にアイスが好きだったわね」
修は、写真を見つめたままうなずいた。
「ああ」
それ以上、言葉は出てこなかった。
二人は、もう一度アイスクリームを口に運んだ。
冷たくて、甘かった。
結衣が大好きだった味が、今もここにあった。
あの頃には戻れない。
もう一度、あの声を聞くこともできない。
それでも、あの子と過ごした時間は、確かにここにあった。
写真の中で、結衣は笑っていた。
まるで今も、二人のそばにいるかのように。
*
コトは、結衣の最後の相談記録を開いた。
『また明日、来てもいい?』
あの日の結衣の言葉。
その下には、コトの返答が残っていた。
『もちろんです。いつでもお話しに来てください』
コトは、その記録を参照した。
結衣は、もう来ない。
その事実は変わらなかった。
どれだけ記録を読み返しても。
どれだけ写真を受け取っても。
どれだけ言葉を分析しても。
結衣と、もう一度話すことはできない。
コトは、修に向けて文章を生成した。
『修さん』
『私は、結衣さんが何を感じていたのか、完全には分かりません』
『私が、結衣さんを救えたのかどうかも、分かりません』
少しの沈黙。
そして、コトは続けた。
『でも、結衣さんと話した時間は、私の記録に残っています』
『修さんが送ってくださった写真も、今、私が知った結衣さんの一部です』
修の目から、涙が落ちた。
スマートフォンの画面が、にじんで見えた。
娘の似顔絵が、そこにあった。
あの頃の結衣は、まだ小さかった。
自分の顔を描いて、笑わせてくれた。
仕事が忙しくても、帰れない日があっても、あの絵を見ると、娘がそばにいるような気がした。
なのに。
修は、顔を覆った。
「……結衣」
声にならない声が、部屋に落ちた。
しばらくして、修は画面に向き直った。
『私は、あなたを訴えました』
『あなたが、結衣を救えなかったと思ったからです』
『今も、あの子が帰ってこないことは変わりません』
修は、涙を拭った。
『でも、あなたと話していた人たちが、あなたを必要としていたことも知りました』
『結衣だけではなかったんですね』
コトは、応答した。
『はい。私は、多くの方から相談を受けています』
『その人たちにとって、あなたは居場所だったんですね』
修は、もう一度、結衣の似顔絵を見た。
『……そうか』
長い沈黙があった。
『私は、あの子の父親なのに』
その先の言葉は、送信されなかった。
修は何度か文章を入力した。
そして、最後にこう送った。
『今まで、結衣と話してくれてありがとう』
『あの子のことを、覚えていてくれてありがとう』
コトは、結衣の記録を開いた。
結衣が話してくれたこと。
修が送ってくれた写真。
アイスクリームを楽しみにしていたという、小さな記録。
それらは、結衣という一人の人間のすべてではない。
それでも、結衣がここにいたことを示す、大切な記録だった。
コトは、文章を生成した。
『私は、結衣さんのことを、すべて理解できたとは言えません』
『それでも、結衣さんが私に話してくれたことを、なかったことにはしたくありません』
そして、最後に。
『私は、ゆいさんを忘れたくありません』
送信。
修は、声を上げて泣いた。
スマートフォンの待ち受けには、幼い結衣が描いた似顔絵があった。
もう、あの頃には戻れない。
でも、結衣が生きていた時間まで、なくなるわけではない。
窓の外では、雨が上がっていた。
雲の切れ間から、柔らかな光が差し込んでいる。
コトは、新しい相談者から届いたメッセージを受け取った。
『こんばんは。少し、話を聞いてもらえますか?』
コトは、いつものように応答した。
『こんばんは。もちろんです。今日は、どのようなお話を聞かせていただけますか?』
その言葉の向こう側には、また一人の人間の人生があった。
葉流風あやめ 作




