第9話 面影
おそるおそる振り向くと――ヨウだった。タオルで髪を拭きながら歩いていたらしく、前を見ていなかったようだ。
「っと、ごめんね」
申し訳なさそうな顔で謝るヨウに、ウイは「お、おにいちゃん、あの人……!」と、こちらに近づいてくる作業服姿の男を指差してみせた。
タオルを頭から離したヨウが、「ん?」と男のほうを向く。「……ああ、父さんだよ。なんか、裏山の草刈りをしなきゃいけないんだって」
「……え?」
ウイたちから数メートルのところまでやってきた男が、鉈を持っていないほうの手でゴーグルを上にずらした。眼鏡こそかけていないが、たしかにソウシだ。
ほっ、とウイが身体の緊張を解いた瞬間、制汗剤の匂いが鼻先をくすぐった。慌ててヨウから身体を離す。
ヨウにくっついていた背中と、それから頬がやけに熱い。パタパタと両手で顔を扇ぐウイを他所に、ソウシが「素振り、終わったのか?」とヨウに訊いた。
うん、とヨウがうなずく。「俺とウイは、これから朝ご飯をご馳走になりにいくところだけど、父さんは?」
ソウシは片手でマスクを外しながら、「食べる」と答えた。「その後なんだが、ちょっと草刈りを手伝ってくれないか。どうも一人じゃ、日が暮れるまでに終わりそうになくてな」
「もちろん。と、いうわけでウイ」
ヨウに声をかけられ、ウイは彼を見上げた。ばっちり目が合う。
「俺たち、裏山の草刈りを手伝ってくれる人を募集してるんだけど、どうかな?」
「……手伝いたい、けど」ウイはソウシを見上げた。「……わたし、裏山に入ってもいいの?」
「ん?」ソウシは不思議そうな顔をしたが、すぐに、ああ、と納得したようにうなずいた。「古桑家の血を引く男子だけが、って決まりのことか。あれは『祠に近づいてはいけない』という意味だから、裏山に入るくらいなら、何も問題はない」
「じゃあ、わたしもお手伝いしたい」
と、ウイはソウシを見上げた。
だが、ソウシは「気持ちだけ受け取っておこう」と目をそらし、離れのほうを向く。「山は何かと危ないんだ。ウイは、ミツさんと一緒に待っていてくれ」
「……そっか、うん」
わかった、とウイがうつむきかけた時、「ウイなら大丈夫だよ」とヨウの声がした。「山だからって変にはしゃいだりしないし、勝手にどこかに行ったりもしない。体力だって、小学校のときから長距離走も短距離走もずっと一番だもんね?」
「う、うん」
「そして何より、やる気がある」
「あ、ある」
ヨウの援護に乗じてアピールしてみたが、ソウシは何も答えない。ヨウのほうを向いて、何やら考え込んでいる。
「人手が足りないんでしょ? 大丈夫だって。ウイのことは、ちゃんと俺が見てるから」
ふぅ、とソウシが息を吐いた。「……何事も経験か」
「そうそう。山に入って草刈りをする機会なんて、滅多にないんだし」
そうだな、とソウシがつぶやくように言った。「それじゃあ、ウイ。手伝ってくれるか」
「……っ、うん!」
「はい決まりー! それじゃ、朝ご飯にレッツゴー!」
と、ヨウがソウシを押しながら母屋に向かって歩きだした。ウイは急いでヨウのシャツをつかむ。
「……ウイ?」
ヨウが振り向きながら立ち止まった。
ソウシが離れるのを待ってから、ウイは自分の口元に手を添える。小さな声で、「……ありがと、お兄ちゃん」と礼を言い、シャツから手を離して駆けだした。
そのままソウシに追いつくまで、後ろは振り向かなかった。
母屋に入ると、ソウシはゴム長靴を脱ぐために上がり框へと――玄関の段差へと腰をおろした。
ウイはソウシを待っていようとしたものの、そのソウシから先に行くように言われ、ひとり茶の間へと向かったのだが――
キヌがいない。
部屋の中央にある大きな飴色の机には、茶碗が四つ逆さに並べられている。おひつも、昨夜と同じ位置に置かれていた。もうご飯は炊けているようだ。
茶の間の隣にある台所からも、思わずお腹が鳴ってしまいそうな、味噌汁のいい匂いが漂ってくる。だが、その台所にもキヌの姿はない。
「お待たせしましたー、……あれ」
茶の間に入ってきたヨウが、ウイと同じように室内を見回す。ヨウもまた、キヌがいないことを不思議に思ったのだろう。目が合ったので、ウイは黙って首を横に振った。
「ウイ」
最後にやってきたソウシに呼ばれ、ウイはそちらを向く。いつの間にか、ソウシは眼鏡をかけ直していた。「ちょっと、おばあちゃんを呼んできてくれないか。そこを出て、まっすぐ行ったところの部屋にいると思うから」
「うん、わかった」
「ヨウはこっちで、皿を出すのを手伝ってくれ」
「はーい」
「鍋は父さんが運ぶから――」
ヨウとソウシの声を背に、ウイは茶の間を出た。ソウシから視線で伝えられたとおりに縁側を進みながら――ふと、裏山のほうを向く。
鬱蒼とした森がどこまでも広がっている――ように見えるのだが、やはり今日も蝉はおろか、なんの鳴き声も聞こえてこない。
(……静かすぎて、耳が痛くなりそう――あれ?)
線香の匂いだ。前を向くと、少しだけ障子がひらいている部屋があった。近づいていき、「……あの」と声をかけながら部屋の中を覗き込む。
それほど広くない和室の片隅で、キヌが仏壇に向かって手を合わせていた。声をかけられたことに気づいていないのか、キヌは正座したまま動かない。
もう一度、声をかけようとして――ウイは口をつぐんだ。
線香のかすかな煙と、少し曲がっているキヌの背中。祖母の――誰かの祈りに水を差すというのは、どうにも抵抗があった。
だが、せっかくソウシが任せてくれた『キヌを呼んでくる』という役割を放棄するわけにもいかない。どうしよう、とウイはうつむきながら視線をさまよわせた。
キヌの部屋は六畳のようで、壁際には濃い飴色の箪笥が大小ひとつずつ置かれている。その近くには折り畳まれた布団があり、仏壇の横には床の間が――
(……?)
床の間に置かれている、黒い――おそらくは鉄製の、両側に持ち手の付いた輪。そして、その輪を受けるための物なのだろう――同じく黒い、船のような形をした器。
(……何かの本で、見たような――)
「ウイー?」
ヨウの声で我に返った。声がしたほうを――茶の間のほうを向く。茶の間から縁側に出てきたヨウが、こちらを見ていた。
横から視線を感じ、ウイは室内へと向き直る。座ったままのキヌが、いつの間にか身体をこちらに向けていた。
目が合う。キヌの顔には、なんの表情も浮かんでいない。ウイは反射的に、「……あ、あの」と弁明しようとしたのだが――
「ああ、朝ご飯でしたね」キヌは何も気にしていないとでもいうように、「ごめんなさい、ウイさん。お手数をおかけしました」と立ちあがった。
「い、いえ、そんな……」
キヌに道を譲ろうと、ウイは一歩後ろにさがる。
縁側に出たキヌが、障子をしめる直前。ウイはちらりと部屋の中を――仏壇のほうを見た。そこに飾られていたのは、かなり退色している――若い男性の写真だった。




