第8話 兄と妹
ウイは隣に敷かれている布団を――誰も寝ていない布団を見た。四つん這いで近づき、きちんと整えられている掛け布団の下に、そっと手を差し込む。
冷たい。
どうやら布団の主が――ヨウが起床したのは、かなり前のことらしい。再度、明るいほうの――石畳の参道があるほうの障子を向いた時、(……そうだ、お母さん)とミツのことを思い出した。
ウイは立ちあがり、ヨウに倣って自分の布団を整えてから、明るいほうの縁側へと向かう。障子をひらき――うっ、と軽くのけぞった。
まぶしい。乳白色の屋根瓦と玉砂利が、これでもかと朝陽を反射している。白く輝く境内は、たしかに美しくはあったが――寝起きの目には少々こたえた。
まばたきを繰り返しながら、少しずつ明るさに目を慣らしていく。瞼をとじたときに現れる赤い残光が消えるまで待ってから、ウイは縁側に出た。
空を仰ぎ見る。
快晴だ。当然のように、雲ひとつ浮かんでいない。
どこまでも青く澄み渡っている空を見ていると、早くも気温が上がり始めているような気がしてくる。これだけ晴れているということは、やはり今日も雨は――
「……?」
どこかで、砂利を踏みしめるような音がした。
軽くあたりを見回してみたが、人影はない。やがてまた、同じような音が聞こえた。振り向き、部屋の向こう側の障子を見る。どうやら裏手に誰かいるらしい。
「……そっか」
つぶやきながら、ウイはヨウの布団を見た。すごいな、と胸が締めつけられる。
うつむいてしまいそうになり、首筋に力を込めた。両親が泊っている部屋を一瞥してから、自分たちの客間に戻る。
裏手の――とじたままの障子の前まで移動すると、さっきまでよりもはっきりと、砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。くわえて、何かが空を切るような音もする。
無意識に軽く前髪を整えてから、ウイは障子をひらいた。「……お、おはよう。お兄ちゃん」
ブン、と銀色のバットを素振りしたヨウが、こちらを向いて微笑んだ。「おはよう、ウイ」
その笑顔があまりにもまぶしかったので、思わずウイは「んんっ」と身体を強張らせる。
寝間着姿のままなのに――半袖のシャツと膝丈のズボンというラフすぎる格好で、額には汗まで浮かべているのに――今朝もヨウは驚くほど爽やかだ。今すぐに、スポーツ飲料や制汗剤のCMに出演できるのではないか。
ぴったりノルマが終わったのか、それともウイに気を遣ってくれたのか。おそらくは後者なのだろうが、ヨウは片手でバットを持つと、「ちょうど起こしに行こうと思ってたんだ」と足元のバットケースを拾いあげた。「体調はどう? どこか痛かったり、身体が重かったりしない?」
ううん、とウイは首を横に振った。「……身体はなんともないんだけど、その……昨日は普通に寝ちゃって、ごめんなさい」
「大丈夫」ヨウが照れくさそうに笑った。「じつはウイが寝た後、すぐに俺も寝ちゃったんだよね。だから気にしないで」
「……うん」
返事をしつつ、ウイはヨウから目をそらす。胸のなかで渦巻く複雑な感情のせいで、ヨウの顔を正面から見ることができなかった。
「そういえば」
ヨウの声で、ウイは彼を横目で見る。自分の身体にバットを立てかけたヨウが、バットケースから少しほつれたタオルを取り出すところだった。
「さっき、おばあちゃんがこっちに来てたんだよ」話しながら、ヨウがタオルで丁寧にバットを拭いていく。「『もうすぐ朝ご飯ができるから、母屋まで食べに来てください』って」
「……そうなんだ」
「ウイにも声をかけたけど起きなかった、ってさ」
「えっ」ウイは驚きながらヨウのほうを向く。
「だから、『もう少しでノルマが終わるので、それまでにウイが起きてこなかったら俺が起こして連れていきます』って返事しといた」
「……」
ウイはパチパチとまばたきを繰り返した。いつもなら、部屋で少し物音がしただけでも目が覚めてしまうのだが――声をかけられても目が覚めなかったということは、自分で思っている以上に、心も身体も疲れていたのかもしれない。
「俺は髪と顔を軽く洗ってから母屋に行くけど、ウイはどうする?」バットケースを肩にかけたヨウが、こちらに近づいてくる。どうやらウイが考え込んでいる間に、バットやタオルの片付けは終わったらしい。
「わたしは……お母さんの様子を見てから行こうかな」
ヨウに返事をしながら、ウイは自分の足元を見た。飴色の縁側に、青いフェイスタオルが置かれている。綺麗に畳まれているそれを拾いあげ、ヨウに向かって差し出した。縁側のおかげで、今だけはウイのほうが視線が高い。
一瞬、驚いたような顔をしたヨウが、「ありがとう」と心の底から嬉しそうに笑いながらタオルを受け取った。
肌は擦らずに、トントンと汗を押さえるように顔を拭いていくヨウを見下ろしたまま、ウイは口をひらく。「お兄ちゃんは、起きてからお母さんのところに行った?」
「うん、素振りの前に」ヨウが顔をあげる。「まだ寝てたけど、かなり顔色は良かったし、そのうち起きてくるんじゃないかな」
「そっか」
会話が途切れてしまった。ウイは気恥ずかしさから逃れるように、「……じゃあ、また後で」とヨウに背を向ける。
「うん、また後で」
部屋に戻って障子をしめたウイは、そのまま反対側まで歩き、縁側に出て――
「……あれ」
何かがおかしい。さっきまでと、何かが変わっている。
視線をさまよわせて――気づいた。
裏山のふもと。
古びた大きな門の扉が、少しだけひらいている。
(……誰かが、通ったのかな?)
どうして裏門がひらいているのか――気にはなったが、それよりもミツの顔を見たいという気持ちが勝った。
両親の客間の前まで行き、ふぅ、と気持ちを落ち着かせる。小さな声で、「……お母さん?」と呼びかけながら障子をあけた。
昨夜、ウイたちが眠る前に見舞ったときと同じ場所で――ミツは穏やかな寝息をたてていた。
ウイは布団の横まで行き、正座をしながらミツの顔を覗き込む。ヨウが言っていたとおり、今この瞬間に目を覚ましてもおかしくないほど、ミツの顔色はいい。
「……?」
枕元で、キラリと何かが輝いた。見れば、真珠のイヤリングがひとつ置かれている。おそらくミツを休ませたときに、ソウシが外したのだろう。
ミツの顔へと視線を戻す。その頬にそっと手を伸ばし、けれどすぐに、ウイは首を横に振りながら手を引っ込めた。母にも父にも、無理はさせたくなかった。
しばらくミツの寝顔を見つめてから、静かに立ちあがる。名残惜しくはあったが、キヌを待たせるわけにもいかない。
ウイが縁側に出た時、背後からかすかに声が聞こえた。
振り向く。
「……ヨ、ウ」
ミツの――母の声に、ウイは思わず目を見ひらいた。
目を覚ましてくれたのかと思ったのだが、ミツは目をとじたままだった。どうやら寝言だったらしい。
「……おかあさん、わたしも――」
続く言葉をなんとか呑み込み、ウイは微笑みを作った。「朝ご飯、ご馳走になってくるね」と報告してから、静かに障子をしめた。
うつむいてしまいそうになり、小さく首を横に振る。よし、と小さな声でつぶやき、玄関へと向かった。
サンダルを履き、離れの外に出て――前を向いた瞬間。
石畳の十字路に、誰かが立っていた。裏山を見上げているようだ。
明るいグレーの作業服に、白い軍手と黒いゴム長靴。どうやらゴーグルのようなものを装着しているらしく、目のあたりで朝陽が反射している。さらには白いマスクまでつけているので、まったく顔がわからない。
背格好から判断するに、おそらく成人男性なのだろうが――体格からして、稲盛や鴨井ではなさそうだ。
突然、その男がこちらを向いた。目が合った、という直感。彼が手にしている鉈のような刃物が、鈍く光り――
「えっ」
ズンズンと、足早に男が近づいてくる。
「ひっ」
思わずウイは後ずさり――ドン、と何かにぶつかった。




