第7話 眠(みん)
――二人とも、今夜はもう寝なさい。父さんは、里の人たちに【おあがりさま】がおいでになったことを話してくるから。
そう言うと、ソウシは明かりも持たずに母屋を出ていった。その背中を見送った後、ウイが母屋の玄関でサンダルを履いていると――
「ウイさん」
と、後ろから声をかけられた。
「は、はい」
驚きながらウイが振り向くと、いつの間にか、すぐ後ろにキヌが立っていた。
「ひとつ、聞かせてほしいのですが」
「……なんでしょうか?」
「本当に、ウイさんは【おあがりさま】のお姿を見ていないのですね?」
「……はい」戸惑いつつ、答える。「掛け布団を、頭までかぶっていたので」
あの部屋で起きたことについては、離れから母屋へと移動してすぐに――ウイに代わってヨウが、ではあるが――あらかた話している。そのときに、【おあがりさま】と遭遇したウイがどんな状態だったのかについても、説明したはずなのだが。
「そう、ですか」キヌが言いよどむ。
(……どうしたんだろう)
ウイは軽くうつむきながら、キヌの様子をうかがった。
初めて顔を合わせてからまだ半日も経っていないが、それでもウイはキヌのことを――昼間、激昂する稲盛をひと声で制していたように、どんなときでも決して臆することなく、はっきりと物を言う人物なのだと思っていた。
しかし、今のキヌにその面影はない。まるで別人だ。何か訊きたいことがあるのだろうが、どういうわけか、それを口にしようとはしない。
言葉を選んでいるのだろうか。
あるいは、そもそも質問をすべきか否かで迷っているのか。
なんにせよ、ウイにはもう話せそうなことが何もなかった。かといって、こんな状態のキヌを置いて、この場から立ち去ることもできない。
どうしよう、とウイが悩んでいると――
「ウイー?」
母屋の外からヨウの声がした。
振り向くと、十字路のあたりに、バットケースを肩にかけたヨウが立っていた。こちらを見ている。どうやら、ウイが出てくるのを待ってくれているらしい。
ウイはキヌに向き直り、「……あの」と声をかけた。
「……ああ、ごめんなさい」申し訳なさそうにキヌが頭をさげる。「こんなに引きとめてしまって」
「いえ、そんな……」
無表情に戻ったキヌが、「そうでした、ウイさんのお布団」と離れのほうを見た。「予備がありますから、それを出しましょう」
「あ……ありがとうございます。助かります」
キヌが草履を履くのを待ってから、ウイはキヌとともに母屋を後にした。
割れんばかりに響く、蝉たちの鳴き声よりも。
脳裏に焼きついているのは、やけに赤黒い夕陽のほうだった。
マンションの近くにある、小さな公園。
設置されている遊具は、幼い子供が乗って遊ぶための物――哺乳類らしき生物をデフォルメした、パステルグリーンの何か――が、ひとつだけ。
その日、塾の夏期講習を終えて帰宅中だったウイは、いつものようにその公園を通り抜けようとして――白い、仔猫の死骸を見つけた。
このあたりで何度か見かけたことのある、その仔猫は。
公園の内周に沿って植えられている灌木の陰で、数匹の蠅にたかられていた。
死骸に外傷はなかった――ように思う。仔猫に目立った汚れはなく、毛並みも白いままで――けれど、その毛はどこか硬そうに見えた。
数日前に見かけたときは、もっとフワッと、それこそ干したてのタオルのように柔らかそうだったのに。
土の上に横たわっている、その仔猫の毛並みは――不思議と硬そうに見えたのだ。
その瞬間、ウイは生まれて初めて死というものに触れたような気がした。そして同時に、音もなく――今にして思えば、蝉たちの鳴き声にかき消されていたのだろうが――死骸の周りを飛び回る蠅たちを見て、疑問に思った。
今この瞬間、突然あの蠅たちが死んだとしたら。
わたしは、あれらが死んだと思うのだろうか。
いや、きっと思わない。
蚊でもそうだ。つい先日、自分の腕に止まっていた蚊を叩いたことがあった。けれどあの時、赤い血を吐き出しながら潰れていた蚊を見ても、死んでいるとは思わなかった。
道端に転がっている蝉を見ても。
車道で轢かれている毛虫を見ても。
わたしは、死んでいるとは思わなかった。
では、こうして見つけたのが雀の死骸だったら?
鼠ならどうだろう。少し離れて金魚なら?
さらに飛躍して、それが目の前にあるものではなかったら?
たとえば、画面の向こうで、人が――
ウイは勢いよく首を横に振った。うつむきながら、深く息を吐く。
余計なことを考えている暇はない。早く帰って、塾でやったところの復習と明日の予習をやらなければ。そうして努力を続けていれば、きっと。
(……お兄ちゃんよりもいい成績を取れば、お父さんもお母さんも、きっとわたしのことを見てくれる)
けれど。
百点よりもいい成績なんて、どうすれば――
「――ウイ!」
ヨウの声がした。
ウイのそれとは正反対の、自信に満ちあふれた明るい声。振り向くと、制服姿のヨウが公園に入ってきたところだった。
いつものように微笑みかけてくるヨウから、そっと目をそらす。
勉強だろうが運動だろうが、何をやらせてもすぐに上達する天才肌。両親からだけでなく、誰からも愛される――自慢のお兄ちゃん。
だからこそ、ウイはヨウを視界に入れたくなかった。
そもそもヨウと顔を合わせたくないから、同じ塾に通っているにもかかわらず――彼から一緒に帰ろうと誘われていても、それを断って一人で先に帰っているのに。
どうかこのまま、ほうっておいてほしい。そう思いながら仔猫のほうへと向き直り、うつむいていると――
「……ウイ?」
走って近づいてきたヨウが、心配そうに声をかけてきた。
その気遣いを煩わしいと思う一方で、こうしていつも気にかけてくれることを嬉しいと思ってしまう自分もいる。
ただでさえグチャグチャだった感情が熱を帯び、目と口から溢れてしまいそうになった瞬間。
「うわっ」ヨウが声をあげた。
隣を見上げると、仔猫の死骸を見つけたヨウが、右手で自分の口と鼻を覆って――
誰かに呼ばれた気がして、ウイは目を覚ました。
「……ん」
自分の部屋とは違う模様の、木目の天井。
眉根を寄せながら、やたらと明るい障子のほうを向く。朝陽だ。何度かまばたきをしているうちに、ぼやけていた思考がはっきりしてきた。
(……そっか。お父さんの実家に来てるんだった)
昨夜、布団に入るまでは、あんなことがあった部屋で眠れるわけがないと思っていたのに――長時間の移動でよほど身体が疲れていたのか、それともヨウが隣で「ウイが寝るまでは絶対に寝ないから」と言ってくれたからか、目をとじているうちにあっさりと眠ってしまったらしい。
身体を起こし、あくびをひとつ。両手を上に伸ばしながら、深く息を吸い込むと――緑茶の茶葉を少し焙ったような、畳の――イグサの良い香りがした。
ああ、と気づく。
どこかで嗅いだと思っていた、【おあがりさま】のにおいは――
(……あの仔猫の――死骸のにおいと、似ていたんだ)




