第6話 【おあがりさま】
「母さん!」
白いバットケースを片手に、ヨウが、ソウシとミツの部屋の障子を勢いよくひらいた。室内に駆け込んだヨウに続いて、ウイも部屋に入る。
薄暗い部屋の奥。一組だけ敷かれている布団に、ミツが横になっていた。
「……おかあさん?」
まさか、とウイはミツに駆け寄った――が、母はる穏やかな寝息をたてていた。うなされている様子もない。ソウシから聞いていたとおり、ミツの体調は良くなっているようだ。
けれど、そのソウシがいない。
ひらいたままの障子から差し込んでくる月光を頼りに、ウイが室内を見回していると――視界の隅で何かが動いた。見れば、ヨウがズボンのポケットからスマートフォンを取り出すところだった。
「父さんに電話してみる」
と、ヨウが青いケースに入っているそれを、片手で手早く操作する。すぐに、ウイの耳にもはっきりと電話の呼び出し音が聞こえてきた。
「ごめん、ウイ。ちょっと持っててくれる?」
差し出されたスピーカー状態のスマートフォンをウイが「うん」と受け取ると、ヨウは「ありがとう」と礼を言いながら、慣れた手つきでバットケースから銀色のバットを取り出した。
その場にバットケースを落とし、金属製のバットを片手で構えながら、ヨウが縁側のほうへと――ひらきっぱなしの障子のほうへと歩いていく。
ギリギリまで縁側に近づくと、ヨウは覚悟を決めるように短く息を吐いた。
そっと、部屋の外に顔だけを出す。
「……」
自分たちが来たほうを見てから、反対側を――玄関のほうを向いた。だが、誰も――何もいなかったらしい。ヨウは静かに障子をしめると、首を横に振りながらウイの隣まで戻ってきた。
「父さんは……やっぱり出ない?」
ヨウに訊かれ、ウイは「うん。お風呂に入ってるのかな?」と留守番電話に切り替わってしまったスマートフォンを手渡した。
「だと思う」ヨウが電話を切りながら、眠ったままのミツを見下ろす。「父さんと合流したいけど、母さんをここに置いていくわけにはいかないし……」
ふと、ウイは何かが気になり、室内を見回した。障子がしまっていてもなお、その障子越しに差し込んでくる月光のおかげで、さほど視界には困らない。
どうやらこの部屋は、ウイたちが泊まらせてもらっている客間と同じつくりになっているようだ。
東西には障子があり、南には白い土壁、そして北には床の間がある。床の間に飾られている水墨画の掛け軸も、生けてある花の組み合わせも同じ――
(……あれ?)
生け花を見つめながら、ウイは室内のにおいを嗅いだ。
少し青臭いのは、畳の――イグサの匂いだろう。それに混じって、ミツが好んで使っている柔軟剤の香りもする。
ミツを見下ろしたまま何やら考え込んでいるヨウに、ウイは「……お兄ちゃん」と声をかけた。
「うん?」
と、ヨウがこちらを向く。
「たぶんだけど、さっきの【何か】、今は近くにいないと思う」
「……どういうこと?」
目を丸くしたヨウに、ウイは「えっと、さっきはすごく臭くて」と説明を続けた。「……でも、今はそんなことないから」
スン、とヨウが鼻を鳴らす。「……たしかに、畳の匂いとかはするけど臭くはないね。……ちなみに、それってどんなにおいだったの?」
ヨウに訊かれ、ウイは「どん、な……」とうつむいた。右手の人差し指を軽く曲げながら、自分の鼻に当てる。
あのとき、掛け布団の中で思ったのは。
つい最近、似たようなにおいを、どこかで――
軽快な電子音が静寂を叩き割った。
ウイは思わず、びくりと背筋を伸ばす。
「ごめん、ウイ」謝りながらスマートフォンの画面を確認したヨウが、「父さんからだ」と電話に出た。「もしもし、父さん? ああいや、ちょっと説明が難しいんだけど、じつはウイが――」
「【おあがりさま】ですね」
淡々とした口調で、キヌが告げた。
ウイとヨウは、母屋の茶の間へと移動していた。座卓を挟んでソウシ、キヌと向かい合って座っている。電話越しにヨウが事情を説明した結果、ソウシから『ミツさんはそのままで大丈夫だから、二人とも母屋まで来なさい』と言われたのだ。
扇風機はもう動いていない。柱時計の音だけが、静かな茶の間に響いていた。
「……なんですか、その……【おあがりさま】? って」
ヨウが訊いた。何を言われているのかわからない、という顔をしている。ウイも、ヨウとまったく同じ気持ちだった。
「ざっくり説明すると」答えたのはキヌではなく、ソウシだった。「この里に伝わる、神様の使いのようなものだ」
「……か、神様? 二人とも、さっきから何を――」
「ちゃんと説明する」ソウシが、ヨウの言葉を遮った。「だから、まずは父さんの話を聞いてくれ」
気持ちを落ち着けるように、ヨウが息を吐いた。「……わかった」
ソウシが、ちらりと隣に座るキヌを見た。キヌは無表情のまま、すべてソウシに任せるとでもいうように両目をとじている。
「【おあがりさま】は」ソウシが話を再開した。「今年みたいに日照りが続くと、御山――裏山のことだが、そこから里においでになるんだ。今なら雨乞いを受け付ける、というお告げのようなものだと言われている」
「……いや、お告げって……ウイの話だと、そんな感じじゃなかったみたいだけど。言ったでしょ? 掛け布団が切られて――ああいや、でも」ヨウが、隣に座るウイを見た。「そういえば、何か聞こえた、って言ってなかった?」
「……えっ、と」
あの声のようなものをどう説明したものか、とウイが迷っていると――強い視線を感じた。戸惑いながらそちらを向く。キヌだ。目を見ひらき、何か言いたそうに少しだけ口をひらいている。
「……何か、聞こえたような気はするんですけど」ウイは身体を強張らせながら、「ちゃんと聞き取れなくて……ごめんなさい」と目を伏せた。
「大丈夫、ウイが謝ることなんて何もないよ」
「そうだ、気にしなくていい」
と、ヨウに同調したソウシが、「とはいえ」と話を戻した。「こうなったからには、なるべく早く雨乞いをするしかない。今夜のところはもう【おあがりさま】はおいでにならないはずだが、明日以降はどうなるかわからないからな」
「それって、雨乞いするまでは何回でも【おあがりさま】が来る、ってこと?」
ヨウの質問に、「そうらしい」とソウシが答えた。
「……あの」ウイは顔をあげ、ソウシを見た。「わたしは、どうすればいいの? 雨乞いって……裏山の、祠? まで、わたしが行けば――」
ふぅ、とソウシがため息をついた。「行くのは、ヨウだ」
「……え?」
「わかった」
即答したヨウのほうを向きながら、ウイは「ま、待って!」とヨウのシャツをつかんだ。戸惑いつつソウシへと向き直る。「なんで、どうしてわたしじゃダメなの?」
「雨乞いをするためには、夜になってから、御山にある祠まで行かなければならない。ここまではいいな?」
「……う、うん」
「その祠に近づいていいのは、古桑家の血を引く男子だけなんだ」
「ど、どうして?」
「昔から、そうと決まっているらしい。前回、父さんが選ばれたのも、それが理由だ」
「そんな……」
ウイが呆然としていると、「ウイ」とヨウの声がした。隣を向くと、「大丈夫だから」とヨウが微笑んでいた。
ウイは何も言えなくなり、兄の笑顔から逃げるように視線を落とした。
「やってくれるか」
ソウシの確認に、「もちろん」とヨウが答えた。「夜の山に登るんだよね? そんな危ないこと、ウイにさせられないよ」
「そうか……」
ソウシの声は震えていた。ウイが少しだけ顔をあげると、ソウシは眼鏡を取ってうつむいていた。
「おとうさ――」
ウイの声を、「ヨウ」とソウシが遮った。目頭を押さえながら、「俺は、おまえのことが誇らしいよ。本当に、おまえは俺の、自慢の息子だ」と続けた。
「そんな大げさな……」
苦笑するヨウから――彼のシャツから、ウイはそっと手を離す。
わたしが、と喉元まで出ていた言葉を無理矢理に呑み込んだ。うつむきながら、膝の上で拳を握りしめる。
ソウシに褒めてもらえるヨウへの嫉妬と、こんなときですらそんな感情を抱いてしまう自分への嫌悪感から――強く、唇をかんだ。
「それで、俺は明日の夜のいつ、祠に行けばいいの?」
ヨウの質問に、眼鏡をかけ直したソウシが立ちあがった。「日が暮れたら、すぐに」




