第5話 掃立て(はきたて)五
夕食の後、母屋で入浴も済ませたウイは、ひとり離れへと向かっていた。
首にタオルを一枚かけて、半袖のシャツに短パンといういつもの寝間着姿で石畳を歩いていく。手荷物はない。脱いだ服や使ったバスタオルなどは、キヌがまとめて洗濯してくれるらしい。
夜も深まりつつあり、ようやく涼しくなってきた一方で――あたりは早朝かと思うほどに明るかった。
離れの屋根瓦は白く輝き、境内には母屋の濃い影が伸びている。光源は、夜空に浮かぶ白い満月だ。
ウイは十字路のあたりで立ち止まり、雲ひとつない夜空を仰ぎ見た。
大小様々にきらめく星々と、彼らを従えるように煌々と輝く白い月。夜間とは思えないほどの明るさも、月光が創り出す濃い影も――都会育ちのウイにとっては初めて目にする幻想的な光景だった。
けれど、これだけ晴れているということは――
「……明日も、雨は降らないんだろうな」
夜空を見上げたまま、ぽつりと零す。
ウイたちが住んでいる都市部だけでなく、この里でも深刻な水不足が起きているらしい。その影響で、離れの風呂場は現在使用できず、母屋で入浴させてもらうことになったのだ。
ちらりと母屋を振り返る。ウイと入れ替わりで、今はヨウが入浴中だ。ソウシに似たのか、ウイもヨウもあまり長湯するタイプではない。なので、彼が風呂からあがるのを、母屋で待っていようかとも思ったのだが――
「お母さん、大丈夫かな……」
ひどく青ざめていたミツの顔を思い出し、ウイは離れに向かって足を踏み出そうとした――けれど。
(……わたしが会いに行っても、きっとお母さんは……)
足がすくんだ瞬間、境内に一陣の風が吹いた。
「……っ」
首にかけていたタオルを飛ばされそうになり、ウイは慌ててタオルをつかむ。まばたきをしながら、風が吹いてきた方向を――裏山のほうを向いた。「……え」と目を見ひらく。
裏山から伸びる暗い影のなか。
裏門の近くに、こちらに背を向けた誰かが――ソウシが立っている。どうやら裏山を見上げているらしい。
胸騒ぎがした。
このまま、ソウシがいなくなってしまうのではないか――
「お父さん!」
気づけばウイは駆けだしていた。タオルが石畳に落ちるのも構わず、ソウシに駆け寄る。
「お父さん、待って!」ソウシの腕をつかんだ。「お父さん!」
「……ん?」
と、ソウシが振り向く。夢から覚めた直後のような、ぼんやりとした表情をしていたが――すぐに、いつもの達観したような眼差しが戻ってきた。
「なんだ、ウイか。どうした?」
「えっと……」どう答えるべきか少し迷ったが、結局そのまま伝えることにした。「お父さんが、どこかに行っちゃうような気がして……」
角張った眼鏡の奥で、ソウシが少しだけ目を丸くする。「……そうか、心配をかけたな」
「う、ううん!」ウイは勢いよく首を横に振った。ミツが体調を崩しているときに不謹慎だとは思ったが、こうしてソウシと話せることが嬉しかった。「えっと……そうだ、お母さんの体調はどう?」
「横になったら少し落ち着いたみたいだ。今は眠って――」
ウイの背後で、小さな物音がした。ソウシがそちらを向く。「ヨウ! 風呂あがりか? ちゃんと髪を乾かせよ!」
ソウシの視線を追ってウイが振り向くと、母屋の玄関先にヨウが立っていた。半袖のシャツに膝丈のズボンという、いつもの寝間着姿だ。
はーい、と返事をしたヨウが、そのまま離れに向かって歩いていく。目が合った――と思った瞬間、目配せをされた。
(……お兄ちゃん)
気を使ってくれたのだ、とすぐにわかった。俺はこのまま離れに行くから、ウイは父さんとゆっくり話せばいい、と。
しかしソウシは、すっかり娘への興味を失くしたかのように――あるいは、『 』かのように――ウイに背を向けて遠ざかっていく。
伸ばしかけたウイの手から力が抜け、だらん、と腕ごと垂れさがった。唇をかみ、うつむきながら駆けだす。こみあげてきた涙を、誰にも――とくにヨウには見られたくなかった。
すぐにソウシを追い抜き、十字路のところまで来ていたヨウとすれ違いざまに、彼が拾ってくれたばかりのタオルをひったくる。
「ウイ!」
ヨウの声を無視して離れまで走った。玄関を入ってすぐ左側にある引き戸を乱暴に開け放つ。足早に縁側を歩いていき――両親の客間の前を素通りして、自分たちの客間に入った。
縁側に背を向けたまま、力任せに障子をしめる。床の間の近くに置いていた自分のキャリーケースに、思いきりタオルを投げつけた。
薄暗い室内には、東西の縁側と平行になるように二組の布団が敷かれていた。おそらくウイが入浴している間に、キヌが用意してくれたのだろう。ウイは迷わず奥側の布団にもぐり込んだ。
入ってきたほうの障子に背を向けながら、夏用の薄い掛け布団を頭の上まで引っぱりあげる。
(……今はお兄ちゃんと話したくない。顔も見たくない)
涙をこらえながら、ウイは自分自身を抱きしめるように布団の中で身体を丸めた。
どこかで、ぎぃ、と板が軋むような音がした。背後の――しめたばかりの障子がひらいていく気配。誰かが部屋に入ってきた。
ゆっくりと、足音がこちらに近づいてくる。
(……お兄ちゃんは何も悪くない。でも――)
ふと、ウイは鼻をひくつかせた。
くさい。
鼻を刺すような刺激臭。
似たような臭いを、つい最近――
『 シ 』
声。
『 ぬ 』
おそらくは男の、
『 ア 』
どこまでも暗く、
『 い 』
どこまでも重い、
『キ 』
まるで喉の奥まで、臓腑の底の底まで汚泥を詰め込まれているかのような――濁った声が、
『 て 』
すぐ近く、掛け布団を一枚隔てたところから――頭上から降ってくる。
『 ル』
部屋に入ってきたのはヨウではない。
もちろん、ソウシでもない。
もっと別の誰か、いや――【何か】。
いつの間にか、ひどく全身が震えていた。
ぶつかりあった歯がガチガチと音をたてる。
声が、うまく出せない。呼吸の仕方が、わからない。
(――!)
手、なのだろうか。掛け布団の上から、腰のあたりをまさぐられた。その手が、ウイの身体の形を探るように蠢きながら、徐々にこちらへと――顔のほうへと近づいてくる。
今すぐ逃げだしたいのに、身体が、凍りついてしまったかのように動かない。
首のあたりまで登ってきた手が、ぴたり、と動きを止めた。しかしすぐに、首の太さを確かめるように一度、二度、と押してきた――かと思うと、すっ、と離れていく。
(……終わ、った?)
ウイが息を吸おうとした瞬間、首の付け根に硬い物が当たった。冷たい。あきらかに手ではない形状の――横に長く硬い物体を、首元に押し当てられている。
少しずつ、その冷たい感触が沈み込んで――
「ウイ?」ヨウの声がした。
「――ダメ! お兄ちゃん!」
咄嗟に身体をひねり、掛け布団を撥ね退ける。そこにいる【何か】を突き飛ばすつもりで、ウイは思いきり腕を振り回した――のだが。
手応えがない。
「……え、え!?」
何が起きているのかもわからないまま、室内を見回す。だが、部屋に入ってきたばかりのヨウ以外には、誰も――何もいない。
「……ウイ? どうしたの?」
撥ね退けたばかりの掛け布団を手繰り寄せながら、「お兄ちゃん、今――」とヨウのほうを向いた時。指先に、引っかかるような感触があった。
おそるおそる視線を落とし、息を呑む。
おそらく、ちょうど首があったところ。
掛け布団が、ざっくりと――




