第4話 掃立て(はきたて)四
縁側に出た瞬間、後ろから肩をつかまれた。ウイが振り向くよりも先に、ヨウがウイを庇うように前へ出る。
「すみません!」かすかに緊張感をはらんだヨウの声が、あたりに響く。「何か、トラブルですか?」
稲盛がこちらを向いた。鋭い目つきで――値踏みするような目でヨウを見ながら、口を動かす。どうやらキヌと一言、二言――何かを話しているようだが、声が小さくて聞き取れない。
だが、稲盛たちの近くにいる鴨井には会話が聞こえていたのだろう。慌てた様子でこちらを向くと、深々と頭をさげてきた。
初対面の大人に、どうしてそんな態度をとられなければならないのか――ウイが居心地の悪さを感じた時。
突然、稲盛が顔の向きを変えた。離れの玄関のほうを――そこから出てきたソウシを見るやいなや、「ソウシィ!!」と怒鳴りつける。
しかしソウシは平然とした様子で、「お久しぶりです、稲盛さん」と稲盛に会釈した。
「どのツラさげて出てきたんや、このクソボケがァ! あいつは、あいつらはなぁ、最後までおまえのことを――」
「稲盛さん」キヌの、感情を押し殺したような声がした。「どうか、そこまでにしてください。心に深い傷を負っているのは、あなただけではないはず」
稲盛が口をつぐんだ。しかし怒りを殺しきることはできなかったらしく、小刻みに身体を震わせながらソウシを指差す。「……次はねえぞ」
ソウシが黙ってうなずくと、稲盛は不快そうに「カッ!」と吐き捨てた。ヨウを一瞥しながら踵を返し、「カモォ! 帰るぞ!」と境内の入り口に向かって大股で歩いていく。
「へ、へい!」返事をした鴨井が、再度こちらに向かって深々と頭をさげてから、早足で稲盛を追いかけていった。
縁側から、遠ざかっていく稲盛たちの姿をウイが見つめていると、「ウイ」とヨウに声をかけられた。振り向くと、しゃがみ込んだヨウと目が合った。真剣な表情だ。
「さっきの人みたいに、すごく興奮してる人に声をかけるのは危ないから、次からは気をつけてね」
「……うん」
ウイが目を伏せてしまいそうになった瞬間、「でも」とヨウの表情が和らいだ。「おばあちゃんを守ろうとしたんだよね。すごく偉いことだよ。よく頑張ったね」
ウイは目を見ひらき――すぐにヨウから顔をそむけた。手の甲を、自分の口元にあてる。やけに熱い頬を、ヨウに見られたくなかった。
「この後、どうする?」立ちあがったヨウが、客間へと戻りながら訊いてきた。「ウイがどこかに行くなら、俺もついていくけど」
「……キャリーケース。玄関に置きっぱなしだから、コロコロのところをふいて、持ってこなきゃ」
「あー、たしかに。ちょっと待ってて。俺、ウェットティッシュ持ってきてるから、取ってくるよ」
うん、と返事をしながら、ウイは静かになった古桑神社の境内を――十字路のあたりを見た。ソウシとキヌが、何かを話しながら母屋に向かって歩いていく。
まばたきをしながら、ウイは視線を落とした。乳白色の玉砂利の上に、離れの黒い影が伸びている。いつの間にか、ずいぶんと日が落ちて――
「……?」
かすかな異臭。戸惑いながら、あたりを見回す。
「ウイ?」ウェットティッシュの袋を手にしたヨウと、目が合った。「どうしたの?」
ううん、とヨウに首を振ってから、ウイはなんとなく稲盛たちが帰っていった方向を――石段のほうを見た。
あらためて、スン、とあたりのにおいを嗅いでみる。石鹸のような――タクシーを降りる前に塗り直した、日焼け止めの匂いがしただけだった。
「……雨乞い?」
夕食の席で、ヨウが戸惑いまじりの声で言った。箸でつまんだばかりのカボチャの煮付けを自分の小皿へと戻しながら、信じられないものを見るような目でソウシを見ている。
ヨウの隣に座っているウイもまた、ヨウほど表情には出していないものの、同じように困惑していた。
稲盛たちが帰ってから数時間後。ウイたちは母屋の茶の間で、座布団に座って夕食を囲んでいた。
茶の間の広さは客室と同じ十二畳。部屋の中央にある飴色の大きな座卓には、キヌとミツが作ってくれた和食中心の夕食が並べられている。
「それが、あの……稲盛さん? が、怒ってた理由?」
ヨウに訊かれ、ああ、とソウシがうなずいた。「二十年くらい前になるかな。ちょうど今年みたいな、空梅雨から始まって、夏になってもずっと雨が降らない年があったんだ。あちこちのダムや川が渇水して、この里でも水不足が起きていた」
だから、とソウシが麦茶の入ったコップをつかんだ。「里を代表して、俺が雨乞いをすることになった。……でも、雨は降らなかった。それが原因で、稲盛さんのお知り合いは農家を続けられずに、首をくくったらしい」
ソウシがコップに口をつける。誰も、何もしゃべらなかった。静かな食卓に、柱時計の針が進む音と、扇風機の首を振る音だけが響く。
「いや、でも……」ヨウが口をひらいた。「それで父さんが怒られるのはおかしいでしょ。ウイもそう思うよね?」
うん、とウイはうなずく。
稲盛の知り合いが自殺してしまったというのは、たしかに悲しい出来事ではあるものの――その原因が、ソウシが雨乞いに失敗したから、というのはどう考えてもおかしい。あまりにも理不尽だ。
ふ、とソウシが苦笑した。「……稲盛さんたちも、そう思ってくれればよかったんだが」
「というか、そもそも……」ヨウが箸置きに箸を置く。「雨乞いって、何をするの?」
「ん? ああ」ソウシが障子窓のほうを見た。すでに日は暮れていたが、月明かりのおかげで外の様子はわかる。「あっちに大きな門があっただろう」
参道のような石畳の突き当たりにあった、古びた和風の門。
「うん」
「あの先にも石段があって、それを登っていくと祠がある」
「へー」
「それだけだ」
「え?」
話は終わり、と言わんばかりにソウシが味噌汁をすする。
「いやいや」
と、ヨウが待ったをかけた。「それだけって。お祈りとかさ、あるじゃん。たき火をしたりとか」
「あんな森の中で、しかも水不足で乾燥してるときに、たき火なんかしてみろ。あっという間に山火事だぞ」
「……それはまあ、そうなんだけど」
「父さんもな、行けばわかる、と言われただけなんだ。それであの夜、祠まで行って……そのまま朝まで待ってみたんだが、結局、雨は降らなかった」
「……そんなの、ますます父さんのせいじゃないよ」
うんうん、とウイも黙ったままうなずいた。
「そうかな」自嘲するように薄く笑ったソウシが、何かに気づいたように隣を向く。「ミツさん?」
いつの間にか、ミツがうつむいていた。「……あ、ごめんなさい」と顔をあげたが、ひどく顔色が悪い。青ざめているだけでなく、額には大粒の汗がいくつも浮かんでいる。「なんだか食欲がなくて……今日は早めに休ませてもらってもいいかしら」
「もちろん」
「お義母さまも、ごめんなさい」
「お気になさらず。ソウシ、部屋まで送ってさしあげて」
ソウシはキヌにうなずくと、ミツに肩を貸した。「ゆっくりでいいからね」とミツを支えながら立ちあがる。
「父さん、俺も――」
立ちあがろうとしたヨウを、ソウシが「いや、いい」と手で制した。
「でも……」
「ミツさんのことは父さんに任せて、ヨウはちゃんとご飯を食べなさい」
そう言って、ソウシはミツを連れて茶の間を出ていった。
再度、食卓に沈黙が降りる。ヨウが座り直すのを見て、膝立ちになっていたウイも座布団に腰をおろした。
「食べようか」
ヨウに微笑まれ、ウイは「うん」とうなずく。しばらく静かな食事が続き、ヨウがからになった茶碗を机に置いた。
「おかわりはどうしますか?」キヌが、自分の茶碗と箸を置きながらヨウを見る。
「あー、えっと……」
「ソウシから、ヨウさんは野球部で活躍していると聞いています。私はそういったことには詳しくありませんが、きっと日々の食事は大切なことなのでしょうし、たくさん食べたほうがいいのでは?」
「……そう、ですね。それじゃあ、いただきます」遠慮がちに、ヨウが茶碗を差し出した。
はい、と茶碗を受け取ったキヌが、彼女の近くにあるおひつからご飯をよそい始める。
そんな二人のやり取りを、ウイはどこか遠くのことのように見つめていた。ひとり、視線を落とす。
手元の茶碗は、もうほとんどからになっていた。ウイの前に並べられている料理も、残っているのは焼き魚が少しと、黒い――何かの実だけだ。
まるで葡萄をギュッと圧縮して小さくしたようなそれは、もちろんヨウの前にも用意されている。
「ん」
ヨウの声にウイが顔をあげると、ちょうどヨウがその実を食べたところだった。
「……全然、酸っぱくないですね。甘い。これ、なんですか?」ヨウがキヌのほうを向く。
「桑の実ですよ」キヌが答えた。
「桑の実、これが……」
ご飯をよそった茶碗をヨウに差し出しながら――ええ、とキヌはどこか寂しそうに微笑んだ。「数少ない、この村の特産品です」




