第3話 掃立て(はきたて)三
「――!」
ウイが身体を強張らせた瞬間、背後から強風が吹きつけてきた。不意を突かれ、体勢を崩す。前のめりになってしまったところを、「おっと」とヨウに抱き寄せられた。
あっという間に、風はおさまり――
「おーい、おキヌさぁーん」
のんびりとした男の声が、あたりに響いた。ほどなくして石段から姿を現したのは、灰色の作業服を着た二人の老人だった。
麦わら帽子をかぶった小柄な男と、やたらと体格が良く、頭に白いタオルを巻いている男の二人組だ。
どちらもキヌと同じくらいの年齢――六十歳くらいに見える。農作業でもしていたのか、彼らが履いている黒いゴム長靴は土で汚れており、二人とも汗だくだ。
小柄なほうの老人が、「おキヌさんやぁー」と片手をあげる。
(……さっきの声と同じ――あれ?)
まばたきをしながら、ウイはあたりを見回した。いつの間にか、あの嫌悪感が――猛暑であることを忘れてしまうほどの冷たい忌避感が、すっかり消えている。
「ソウシ」後ろからキヌの声が聞こえた。「私は鴨井さんたちのお話を伺いますから、あなたは皆さんを離れにご案内して」
だが、ソウシの返事はない。気になってウイが振り向くと、ソウシは裏山のほうを向いていた。
「ソウシ」再度、キヌが呼びかける。
「――ん、ああ」ソウシがこちらを向いた。人差し指の腹で眼鏡のブリッジを押しあげながら、「ごめん、聞いてなかった」と申し訳なさそうな顔でキヌを見る。
「皆さんを、離れにご案内して」キヌが言葉を繰り返した。
そこでようやく、ソウシもこちらに近づいてくる老人たちの存在に気づいたらしい。彼らのほうを見て、「……稲盛さん」と、つぶやくように言った。
うっすらと苦笑を浮かべたソウシが、「わかったよ」と小さいほうの日本家屋へと歩き始める。「みんな、こっちへ」
「それじゃあ、お義母さん。またのちほど」
と、キヌに会釈をしたミツが、ヨウのほうを向いた。「ヨウくん、行きましょう」
「……すぐに行くから、先に行ってて」
ヨウの声はいつもより少しだけ硬く、どこか呆れたような響きを含んでいた。
「でも……」
「ミツさん」
ソウシに呼ばれたミツが、ちらちらとヨウのことを気にしながら離れに向かって歩いていく。
その様子を、じっと見つめていると――
「ウイ、大丈夫? 歩けそう?」
ヨウに声をかけられた。いつものような優しい声だ。
「うん」とウイはうなずき――自分が、ヨウに抱きかかえられていることに気づいた。「ご、ごめんなさい」と慌ててヨウの服から手を離し、彼から離れる。
「大丈夫、気にしないで」微笑んだヨウが、先を行く両親のほうをちらりと見た。「俺たちも行こうか」
「うん」
と、ウイが歩きだそうとした瞬間、ヨウに手を差し出された。ウイのそれとはまったく違う、骨ばった――大きくて硬そうな手。
「転ばないように、手、つないどく?」
ヨウに見つめられ、ウイは反射的に目をそらした。「そ、そこまでしなくていいから……」
「そっかぁー」
いかにも残念そうに天を仰ぐヨウを見て、ウイは慌てて「き、気持ちだけで充分、ってこと!」と言葉を付け足す。
「俺の右手は、いつでもウイのためにあけてあるんだけどなぁー」
「……なにそれ。子供扱いしないで」
「えぇー」
離れへと続く石畳を、ヨウの斜め後ろについて歩いていく。視線を前に向けると、すでにソウシとミツは離れについていた。玄関先で何かを話ながら、こちらを――ヨウを見ている。
(……あ)
責められているような気持ちになり、ウイがうつむきそうになった時。後ろから、かすかに「鴨井さん」とキヌの声が聞こえた。
ウイが立ち止まって振り向くと、石畳の十字路で、キヌと二人組の老人が何やら話していた。
どうやらキヌと話しているのは、麦わら帽子をかぶっている小柄な男だけのようだ。ということは彼が「鴨井」で、ソウシが「稲盛さん」と呼んでいたのは――
「……っ」
ウイは、びくりと身体を震わせた。慌てて正面を向く。ウイの視線に気づいたのか、頭にタオルを巻いている大柄な老人――稲盛が、急にこちらを向いたのだ。
眉間に刻まれていた、深い皺。胸のあたりで組まれていた、丸太のように太い腕。激しく貧乏ゆすりをしていたことなどから察するに、どうやら彼は――稲盛は、かなり苛立っているらしい。
(……おばあちゃん、大丈夫かな)
何も起きないことを祈りつつ、ウイは早足でヨウを追いかけた。
ソウシに案内された客間は、離れの中で最も南の――古桑神社の入り口側にある和室だった。広さは十二畳で、部屋の隅には畳まれた布団が二人分、用意されていた。
部屋の北側にある床の間には、水墨画の掛け軸や、桔梗だろうか――青紫の花を主役に据えた生け花が飾られている。反対の南側には白く塗られた土壁があり、東西にはそれぞれ縁側へとつながる障子があった。
客間に入ったウイとヨウが室内を見回していると、背後から「それじゃあ、夕飯までは自由行動で」とソウシの声がした。
ウイが振り向くと、西側の縁側にミツと一緒に立っていたソウシが、縁側を引き返していくところだった。
この部屋までの移動中にソウシから聞いた話では、ソウシとミツは、ひとつ手前の客間に泊まるらしい。
(……お父さん、どうして遠回りしたんだろう)
視線を室内に戻したウイは、反対側の――しまったままの東側の障子を見た。汗を吸った野球帽を脱ぎながら、頭のなかに離れの見取り図を描く。
離れの構造上、玄関を入ってすぐ左側にあった引き戸をあければ、東側の縁側を通ってこの部屋まで来られたはずなのだ。
けれどソウシが選んだ道順は、その引き戸はあけずに、まっすぐに廊下を進んでから西側の縁側に出る、というものだった。あきらかに遠回りだ。
引き戸が壊れているようには見えなかったし、そもそもソウシは引き戸をあけようともしなかった。
(……もしかして、さっきの人たちのせい?)
作業服を着た、二人組の老人――鴨井と稲盛。彼らを見たソウシが苦く笑っていたことを思い出しながら、ウイは近くにある飴色の木の机に野球帽を置き――
「ヨウくん」ミツの声がした。
振り向くと、ミツがまだ縁側に立っていた。いつにもまして心配そうな表情で、ヨウを見つめている。
「いい? 外に出るときは必ず、お母さんに声をかけてね」
やけに真剣な口調のミツに、ヨウは少し驚いたような顔をしつつ、「わかった」と返事をした。
「約束だからね」
「うん。どこかに行くときは、ちゃんと言うよ」
それでもなおミツは不安そうにしていたが、「ミツさん?」とソウシに声をかけられると、「……いま行きます」とヨウを気にしながら縁側を引き返していった。
客間に残されたウイとヨウは、どちらからともなく顔を見合わせる。
やがてヨウが、「母さん、なんか変じゃなかった?」と言った。
「……うん」
「過保護なのはいつものことだけど――」
あ、とヨウが慌てて口をつぐむ。すぐに帽子を取り、「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。「ああいや、それも違うか……」
申し訳なさそうな顔で頭をかき始めたヨウを見て、ウイは首を横に振る。「お兄ちゃんのせいじゃないから」うつむきながら、言葉を続けた。「わたしのほうこそ、いつも気を遣わせちゃってごめんなさい」
それは、まぎれもない本心だった。
兄のことは嫌いではないし、いつも優しく接してくれることに感謝もしている。
けれど――
こうしてヨウに対して感じている申し訳なさや、感謝の気持ち以上に――両親からの愛情を一身に受ける彼のことが、妬ましくてたまらなくなる時がある。
「ウイ……」
返事はできなかった。決してヨウが悪いわけではないのだと、理解はしている。だけど、それでも。
しん、と部屋が静かになった。
感情の整理ができていない状態で口をひらいても、ろくなことにはならないと――もう知っている。あの日、夕焼けの公園で犯してしまった過ちは、もう二度と――
うつむいたまま、ウイは目を見ひらいた。
ゆっくりと顔をあげ、ひらいたままの障子のほうを向く。乳白色の玉砂利が敷き詰められた裏庭と、白い漆喰の塀。その向こうには、濃い緑の山々がどこまでも広がっている。
「……そっか」
つい先ほど、古桑神社の石畳を歩いていたときに覚えた違和感、その正体。
それがなんだったのか、ようやく理解した。
あまりにも静かすぎるのだ。
こんなにも自然に囲まれているのに――
「全然、蝉が鳴いてない」
「……言われてみれば、たしかに」
ヨウの声に、ウイは彼のほうを向いた。「気になってたの。何かおかしい、って」
蝉だけではない。他の虫も、鳥や獣にいたるまで、まったく鳴き声がしないのだ。
「なんでだろう」ヨウが障子の外を――緑の山々のほうを見る。「……暑すぎるから、とかかな」
うーん、とウイが考えようとした瞬間――
『こっちは命がかかっとんやぞ!』
怒鳴り声が聞こえた。
反射的に、ウイは声がしたほうを――東側の、しまったままの障子のほうを向く。キヌたちがいるほうだ。何やら騒ぐような声まで聞こえてくる。
ヨウが足早に障子へと近づいていく。少しだけ障子をひらき、そこから外を見た。何が起きているのか気になり、ウイもヨウに続いて外の様子をうかがう。
「とっくにため池もカラになっとる! 田んぼも畑も限界や! キヌさん、あんたもわかっとるやろ!」
やはりというべきか、声を荒らげているのは大柄な老人――稲盛だった。対して、詰め寄られているキヌは、まったく顔色を変えていないように見える。
「い、稲盛さん! 落ち着いてえや!」
と、小柄なほうの老人――鴨井が、なんとか稲盛を宥めようとしているようだが、完全に無視されている。体格に差がありすぎるのだ。
「あいつの判断に任せるやと? 何をぬるいこと言っとんのや! ええか、俺らはなぁ――!」
今にもキヌにつかみかかりそうな稲盛の剣幕に、気づけばウイは「あの!」と障子を開け放っていた。




