第11話 祠
何が起きたのかすぐには理解できず、しかし音が聞こえてきたのはソウシたちが向かった先からであったことに気づき、ウイは「――お父さん!」と、慌てて立ちあがった。
石段を駆けあがっていき、長方形の踊り場で「お父さん、大丈夫!?」と音がしたほうを見上げる。
十数段ほど先で――おそらくは石段の最上段で、ソウシが、こちらに背を向けて立っていた。足元に置かれている草刈機はエンジンが止まっており、ソウシ自身は、どうやら自分の右手をじっと見つめているようだ。
実際に雷が落ちたわけではない、らしい。少し耳鳴りはするものの、どこかが燃えていたり、何かが壊れているわけではない。
ちょうどウイとソウシの中間あたりに立っていたヨウが、「父さん?」と戸惑うような声でソウシを呼んだ。「だいじょ――」
「問題ない」ヨウの声を遮ったソウシが、ゆっくりとこちらを向く。
ゴーグルとマスクをつけているせいで、見上げているウイたちからは、ソウシの表情がほとんどわからない。
「ヨウ」抑揚のない口調で、ソウシが続けた。「こっちに来なさい」
「……え?」
あきらかに状況が理解できていないヨウを、「早く」とソウシが急かす。
「……うん」
と、ヨウが石段をあがり始めた瞬間――ウイは、ひどく嫌な予感に襲われた。
ヨウを行かせてはならない。そう直感し、「待って!」と石段に足をかけて――
「ウイ」
ソウシの、氷のように冷たい声がした。その声音に含まれていた明確な拒絶の響きに、ウイは思わず立ちどまり、ソウシを見上げる。ゴーグル越しに、ソウシが鋭い視線をこちらに向けていた。「おまえは、そこにいろ」
心の痛みを感じるよりも先に、ウイの両目から涙が零れていた。
おまえは不要だと、突き放されたような気がした。
そして同時に、己の浅ましさを暴きたてられたような気がした。
お父さんに見てほしいから、お父さんに褒めてほしいから。
だから、草刈りを手伝った――それは否定できないけれど、だけど。
「父さん! そんな言い方は――」
「ヨウ」ソウシが左手でマスクを取った。「大事なことなんだ、これは」
「でも……」
ヨウがこちらを向く。憐れむような彼の表情を直視できず、ウイは目を伏せた。
「ヨウ、早く来い」
ソウシに呼ばれたヨウが、気持ちを落ち着けるように息を吐く。「……わかった、行くよ。だけど、その前に――」言葉を切り、ソウシのほうを向いた。「ウイに謝ってほしい」
ソウシはしばし黙っていたが、「……ウイ」と、それまでよりは心なしか柔らかい声で言った。「きつい言い方をして、すまなかった。少しだけ、そこで待っていてくれないか」
ウイは涙をぬぐいながら、うん、とうなずいた。そのやり取りを見ていたヨウが、未だ納得はしていない表情で石段をあがり始める。
「昨夜、話したことを覚えているか」ソウシが、ヨウのほうを見ながら言った。「二十二年前、俺は雨乞いに失敗した」
「……うん」
「見ろ」
その言葉は自分に向けられたものではない――と理解していたが、それでもウイは目をこすりながらソウシのほうを見た。
こちらに背を向けたソウシが、右手を前方に伸ばしていく。突然、ソウシの指先が白く光った――かと思うと、それは瞬く間に視界を塗りつぶすほどの閃光となり、あたりに落雷にも似た轟音が鳴り響いた。
「――なっ」
巻き起こった強風のなかでヨウが絶句する。ウイもまた、咄嗟に両手で顔を庇いながら混乱していた。
ソウシの指先が光った瞬間、何かに弾かれた――ように見えた。だが、そこに何かがあるわけではない。ただの空間だ。
いや、たとえ透明な何かがそこにあったのだとしても、こんな現象は――
「あの夜、俺は祠に近づけなかった」自分の右手を見つめながら語るソウシの、その口調は――「俺は役目を果たせなかった。果たしたかったのに。心からそれを望んでいたのに」まるで、ここにはいない誰かに向かって語りかけているかのようだった。
「……父さん?」
「ヨウ」振り向いたソウシが、最上段まであと少しのところで立ち止まっているヨウを見た。「おまえはここを通れなきゃいけない。いや、必ず通れるはずだ」
「……さっきから、何を」
突然、ソウシがこちらを向いた。ウイのほうを見ながら、何かを言ったようだが――声が小さかったせいで聞き取れなかった。
おそらく、最初からヨウにだけ聞かせるつもりだったのだろう。ヨウは振り向くと、ウイを安心させるように――いつものように微笑んだ。
(……え?)
胸騒ぎがした。何か良くないことが、自分のあずかり知らぬところで進んでいる――そんな感覚。
数歩で石段をあがりきったヨウが、持っていた鉈鎌を足元に置いた。「待っ――」ウイが止める間もなく、そののまま一歩、ヨウが前へと踏み出す。
音は――しなかった。
何かに遮られることもなく、ヨウはそのまま進んでいく。
ひとり置いていかれてしまうような感覚を振り払うように、「待って! お兄ちゃん!」とウイは必死に石段を駆けあがった。だが最上段についた瞬間、ソウシの腕に行く手を阻まれる。
それでも、そこに何があるのかはわかった。
石段の先に続く短い石畳と――奥行きが十メートルほどの、縦に長い長方形の平地。
奇妙なことに、その平地にだけ草木が生えていない。緑が繁茂している真夏の森の中で、そこだけが黒に近い焦げ茶に変色――いや、腐っているのか。
腐葉土のような臭いが押し寄せてくるなか、ウイは視線をあげた。腐った平地の最奥を――そこにある大樹を見やる。
枯れかけているのか、その大樹が緑の葉をつけているのは、今にも折れそうなほど細い枝の先端にだけだ。幹はかなり太いものの、あちこちに白いカビのようなものが広がっている。
そして、その大樹の根元には。
母に抱かれる赤子のように――小屋のようなものが建っていた。おそらく、あれが祠なのだろう。
祠はひどく古びており、ほとんど朽ちてしまっていた。高さは二メートルほどだろうか。周囲には奉納品らしき、こちらも古びた糸車のようなものが無数に積みあげられている。
そんな空間の中央あたりで、ヨウはこちらに背を向けたまま立ち止まっていた。
「――お兄ちゃん!」
ウイの呼びかけに、ヨウがゆっくりと振り向く。「……えっと」拍子抜けしたような、どことなく気まずそうな顔をしていた。「……あの、祠? まで行けばいいのかな」
「ヨウ」
ソウシの声にウイがそちらを向くと、ソウシがマスクを付け直すところだった。「ウイを連れて先に帰りなさい。鉈鎌も竹箒も置いていっていい。あとは父さんがやっておくから、ヨウは今夜に備えて休んでおくように」
一瞬、ヨウは何か言いたそうな顔をしたが、すぐに「わかった」とこちらに戻ってきた。「ウイ、帰ろう」
「でも……」
と、ウイはソウシの顔を見上げる。
ソウシは祠のほうを向いていたが、彼が本当に見ているものは、そこにはない何かのような気がした。
「ウイ」
再度、ヨウに呼ばれた。ウイはソウシのことを気にしつつ、ヨウに続いて石段をおり始めた。
裏山の中腹あたりまで石段をおりていくと、先を行くヨウが、「さっきのアレ」と口をひらいた。「なんだったんだろうね」
さっきのアレ、とはもちろん、落雷のような光と音のことだろう。
「それは……」
ウイは目を伏せながら口籠もった。ソウシの言動も含めて気になることばかりではあったが、ヨウのことも心配だった。「……お兄ちゃん、なんともないの? 気持ち悪くなったり、身体が重くなったりとか……」
「え? ああ、うん。平気だよ。心配してくれてありがとう。でも大丈夫。むしろ何もなさすぎて、びっくりしてるくらいだから」
「そっか」
「ただ――」何かを言いかけたヨウが、言葉を呑み込んだ。
「……お兄ちゃん?」
「ううん。そうだ、帰ったら先にお風呂に入っていいからね」
「……うん、ありがとう」
ヨウが何を言いかけたのか、気にはなったが踏み込むことができなかった。
なんとなくウイは視線をあげる。古桑神社の境内が見えた。
既視感。つい先ほど、祠の手前で休んでいたときに感じたものと同じ――
記憶の糸を手繰ろうとした時、かすかにエンジンの音が聞こえた。立ち止まって振り向く。祠のほうからだ。おそらく、ソウシが草刈を再開したのだろう。
ウイは前へと向き直ろうとして、自分のすぐ後ろに――石段に何かが落ちていることに気づいた。




