第6話:秘書の着任(新堂亜紀)
――あの日の会議から、まだ二日しか経っていない。
GAIALINQフロアの空気は、妙に静かだった。
誰もが普段どおり仕事をしているふりをしているけれど、視線の奥にはざらついた気配が漂っている。
原因は、もちろんあの子――鏡侑里香。
常務に引き連れられてフロアに現れたとき、私は思わず息を呑んだ。
あの堂々たる立ち姿。
新人とは思えない落ち着きと、確信に満ちたあの目。
そして常務が言った。
「試験的に、“GAIALINQの一ノ瀬COO担当秘書” として配置する」
その瞬間、私も、玲奈も、麻里も――言葉を失った。
冗談であってほしかった。
でも、常務の口調には一切の揺らぎがなかった。
正式ではないにせよ、“COO担当秘書” という立場は、GAIALINQの全ての情報と動きを把握するポジションだ。
つまり――直也くんの時間、動線、行動、予定。
すべてを、あの子が管理するということになる。
私は、胸の奥がじわりと痛くなるのを感じた。
――自分が情けない。
先日の直也くんとの会議。
あの時、私は確かに “軽率” だった。
「理念だけで動いてはいけません」
「組織を動かすなら、秩序とルールの両輪を壊さないことです」
直也くんの言葉は、あまりにも正しかった。
ぐうの音も出ないほどに。
彼の言葉の一つひとつが、経営者としての視座に立っていた。
――私は、もう彼の “チューター” ではない。
その事実を思い知らされた。
その一方で、直也くんの横に新しく配置された侑里香が、まるで “当然のように” その座を得たことが、どうしても心のどこかで受け入れられなかった。
「これからは、直也さんの時間はすべて私が管理させて頂きます」
朝の全体ミーティングで、侑里香はそう言い切った。
その口調に、一分の迷いもなかった。
「GAIALINQの会合、外部との協議、出張、すべて同席させて頂きます。
直也さんを守るためです」
――その瞬間、玲奈が目を細めた。
麻里はタブレットを置いたまま、静かに息を吐いた。
私は、ただ黙っていた。
何も言えなかった。
だって、彼女の言っていることは “正しい” のだ。
過密すぎるスケジュール、休む間もない直也くんの働き方――。
それを止めようと誰も本気で動かなかったことは、私たち全員の責任だった。
彼女は、それを指摘した。
そして、誰も反論できなかった。
「直也さんは、優しすぎます」
「だから、守る必要があるんです」
――その言葉が、なぜだか胸の奥で刺さるように痛かった。
優しい。
その言葉を、何度も私たちは聞いてきた。
でも、あの子が言うと、違う意味を帯びる。
まるで“私だけが分かっている”とでも言いたげに。
……いや、きっとそう思っているのだ。
その証拠に、彼女はもう次の行動を決めていた。
「明日の名古屋、栗田自動車本社での打ち合わせ。
同行します」
麻里が顔を上げた。
「え?」
玲奈も続いた。
「ちょっと待って。
あなた、まだ正式配属じゃ――」
でも、侑里香は微笑んで言った。
「常務に承認をいただいています」
「COO秘書としての試験運用ですから」
その笑顔は完璧だった。
言葉の裏にも上目遣いにも、隙がない。
まるで、最初からこの展開を読んでいたみたいに。
――あの子は、最初からここを狙っていた。
そう理解した瞬間、私の中で何かが静かに軋んだ。
理屈では、分かっている。
彼女が来ることで直也くんの負担は減る。
GAIALINQの運営も滑らかになる。
でも、それでも。
「……行くの?
本当に?」
私が絞り出すように尋ねると、彼女は軽く頷いた。
「はい。
直也さんをサポートするためです」
その返答に、何も言えなかった。
―― “守るため” 。
あの言葉が、どれほど重く響くか。
彼女は、きっと分かっている。
そして、分かったうえで言っている。
私はデスクの上に置いたコーヒーを一口飲んだ。
冷めていた。
まるで今の私の感情みたいに。
窓の外、春の光がゆらいでいる。
GAIALINQフロアの端では、侑里香が出張用の資料をまとめていた。
淡いブラウスの袖口から覗く手首が、やけに細くて、儚い。
けれど、私には分かる。
あの子は、壊れない。
むしろ、壊す側だ。
そして、明日。
彼女は本当に――直也くんと並んで、名古屋へ行く。
私は、胸の奥で小さく呟いた。
「……あなた、ほんとうに彼を守るつもり?」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
ただ、空調の音だけが静かに響いていた。




