第5話:私の祈りの始動(鏡侑里香)
――あの日、確かに拒まれた。
でも、終わりだとは思わなかった。
むしろ、ここからが始まりだと思った。
一ノ瀬直也という人は、感情で動く人ではない。
判断にはいつもそれなりのロジックがある。
ならば、ロジカルな筋道を通せばいい。
それだけのことだ。
配属通知の紙を見たとき、私は小さく息を呑んだ。
――秘書室。
想定外。
でも悪くない。
秘書室は、社長や各取締役、常務、執行役員の予定と情報をまとめる、いわば会社の“神経中枢”だ。
そこには、GAIALINQのCOOである一ノ瀬直也の名前もある。
表の舞台からは外された。
けれど、私は裏側から全体を見渡せる場所を手に入れた。
最初の一週間は、ただひたすら観察だった。
役員秘書の先輩たちが電話一本で調整を決め、書類を何も言わずに受け渡す。
言葉よりも速く意思が通う。
その正確さに、私は少し感動していた。
「鏡さん、これお願い」
穏やかな声でそう言ったのは秘書室長の加藤さん。
40代前半。温厚だが、判断が鋭い。
「はい」
私は指示を受け、社員スケジュールの管理画面を開いた。
限られた権限の範囲で、役員たちの予定を一覧できる。
試しに、GAIALINQ COO――一ノ瀬直也を表示した。
……驚いた。
空白が、ほとんどない。
朝から晩まで会議と移動。
海外出張の合間に研究所訪問、深夜のオンラインミーティング。
日付が変わっても予定が続いている。
念のため他の取締役と比べてみた。
グラフ化すると、一目で異常がわかる。
稼働時間、移動距離、睡眠可能時間――どれも突出していた。
私はスプレッドシートを開き、分析表を整えた。
五井物産全体を俯瞰すれば、これは明らかに “偏り” だった。
このままでは、中心を担う人が最初に壊れてしまう。
翌朝、私は資料をまとめて室長の席に持っていった。
「室長。こちら、GAIALINQの一ノ瀬COOの稼働状況をまとめました」
「分析?」
「はい。GAIALINQの業務が過密すぎて、管理の再設計が必要かと思います」
加藤室長は資料をめくりながら、苦笑した。
「……新人が二週間でここまで出してくるとはね」
「気になってしまったので」
「なるほど。
しかし、確かにこれは異常だ。
一ノ瀬COO、全然休めていないじゃないか……」
「組織として、一ノ瀬COOの時間を守るべきです。
誰よりも長く働く人の負担を放置すれば、チーム全体の流れが止まります」
室長は小さく唸った。
「……これ、常務に見せてみようか」
「お願いします」
数日後、常務――元IT統括取締役が秘書室に現れた。
資料を一読し、すぐに私を見た。
「これ、君が作ったの?」
「はい」
常務は数ページめくりながら、目を細める。
ページには、直也さんの一週間の移動経路が地図上にマッピングされていた。
「……これは、東京→名古屋→盛岡→東京→サンフランシスコ、か」
「はい。現状は移動が直線的ではなく、会議と現地調査の順序が部門ごとにバラバラです。
例えばこの週、名古屋で午前の会議を終えたあと、八幡平で自治体との協議、翌日も盛岡での発表会。
その後東京に戻って経産省と打ち合わせの後に羽田からサンフランシスコです。
この往復だけで、実働時間の3割が “移動” になってしまっています」
常務が眉を上げる。
「……それは確かに、きついな」
「はい。
けれど、順序を変えるだけで負荷は半分にできます。
八幡平の予定を同日にまとめ、名古屋は翌週の出張時に変更して組み込みます。
その分、帰国前夜に現地レビューを一件増やしても、全体の拘束時間は減少します。
つまりプロセスを “再設計” するだけで著しく改善できるはずです」
常務は目を細め、口角を上げた。
「なるほど。数字じゃなくて“プロセス”で見ているわけだ」
「はい。GAIALINQプロジェクトは、同時に人の動きのプロセスでもあると思います。
その動きが滞れば、プロジェクトが抱く理想も機能不全となってしまいます。
エネルギーも人の時間も、プロセスを整えないと持続などできません」
その言葉に、常務は一瞬黙り、やがて小さく笑った。
「……面白い。
視点が違うな。
加藤君、彼女、ちょっと試してみてもいいかな?」
「試すのですか?」
「うん。“GAIALINQのCOO担当秘書” として仮配置してみる。
一ノ瀬くんがどう反応するか、見てみたい」
加藤室長が驚いた顔をした。
「試験的に、ですか?」
「そうだ。正式任命じゃない。
だが――ちょっと、風を入れてみたい。
一ノ瀬COOが過負荷を受け入れすぎているのは、かねてから問題ではあると考えていたのでね」
常務は資料を軽く叩き、私に言った。
「鏡君、やってみなさい。
一ノ瀬直也の動きを、少しでも整えてみせて欲しい」
「承知いたしました」
私は静かに頭を下げた。
心の奥で、わずかに熱が灯る。
ようやく、辿り着いた。
画面には、直也さんの予定表。
会議、出張、調印式、夜間レビュー。
びっしりと並ぶ文字列を、私は一つひとつ整理していく。
「私自身が消耗するのは構わない」
小さく呟く。
「でも、これから消耗させるべきなのは――この無駄な時間たちの方」
その瞬間、画面の光が少しだけ暖かく見えた。
――静かな戦いが、始まった。
※※※
夜。
マンションの部屋の灯りを落とし、ノートパソコンの画面だけが淡く光を放っていた。
今日まとめたスケジュール表を、もう一度開く。
見れば見るほど、その過密さが現実離れしていた。
人間の体は、こんなスピードで動くようにはできていない。
でも――あの人は動いてしまうのだ。
その事実に、息が詰まりそうになる。
彼は、自分の時間を削って生きている。
理想のためでも、安っぽい自己犠牲のためでもない。
ただ、“やらなければならない” と心底信じているから。
その信念の剛直さに、私は少しだけ震えた。
誰も、あの人を止められない。
けれど、私は――その流れを整えられる。
画面の端に映る予定の羅列を、指先でなぞる。
東京。名古屋。盛岡。八幡平。サンフランシスコ。
線を引くたびに、心が静かに研ぎ澄まされていく。
「直也さん。あなたの時間を守り、そしてあなた自身を守るのは、私です」
小さく囁いた。
言葉は誰にも届かない。
けれど、その音が、部屋の空気をわずかに震わせた。
モニターの光が揺れる。
その明かりの中で、自分の影が壁に映る。
――孤独?
いいえ、違う。
これは、まだ誰も知らない祈りのはじまり。
私は、指先に触れたカレンダーの光を見つめながら、静かに微笑んだ。
「私はそもそも燃え尽きる事などあり得ません」
――あのときの言葉が、再び胸の奥でゆっくりと燃え上がる。
次に会うとき、私はもう “新人” ではない。
“構造の一部” として、一ノ瀬直也の隣に立つ。
夜の静寂の中で、画面がゆっくりとスリープモードに落ちた。
――そして、私の祈りが始動した。




