第66話:祈りの夜(一ノ瀬直也)
保奈美の涙が乾くまで、
オレは何も言えなかった。
夜のリビングに、時計の針の音だけが響いている。
外はもう深夜。
窓の外の街灯の光が、薄くカーテン越しに揺れていた。
――もう、誤魔化せないようだ。
保奈美には、全てが見透かされていた。
彼女の目は、誰よりもまっすぐで、
誰かの心に積もった“影”を決して見逃さない。
亡くなった母さんや透子さんが
かつてオレに託した祈りの途方もない重み――。
その痛みを、彼女は癒やし続けててくれている。
けれど今日、オレが抱えさせられたものは、それとはまったく違うものだ。
癒やすことも、分け合うこともできない類のもの。
彼女は、それを一瞬で悟ってしまったのだ。
オレは静かに息を吐いて、保奈美の方に向き直った。
「……保奈美」
その名を呼ぶだけで、胸の奥が痛んだ。
彼女は涙の跡をそのままに、じっとオレを見つめている。
「今、すぐに……全部は話せない」
保奈美の瞳が、ほんの少し揺れた。
「でも――保奈美が気にしているように、重たい荷物を背負わせさせられてしまったかもしれない」
静かな言葉だった。
それでも、喉の奥に引っかかるような重さがあった。
「それは、オレがこれから進めようとしていること、GAIALINQプロジェクトが前に進めば進むほど、ますます重たくなる可能性がある――そういう荷物だ。
それがあまりにも重くなりすぎるような場合には、オレは一人だけでその責任を取る覚悟しなければならない。
これからオレは、そんな事にならないように、どうすればみんなが上手くやっていけるかを、必死になって考えなければならない」
保奈美は唇を噛んだ。
声を出す前から、もう涙の音がした。
「それは……直也さんが一人だけで取らなければならない責任なの?」
オレは、答えられなかった。
彼女は一歩、オレに近づいた。
小さな声で、だけど確かに言った。
「なんで直也さんだけでやるの?
みんなが助けてくれるよ。
亜紀さんも玲奈さんも麻里さんも。
莉子さんだって侑里香さんだって。
保奈美も……保奈美なんて、何の役にも立たないかもしれないけど、でも、それでも、保奈美ができることはなんでもするよ。
なのに、どうして全部、一人でしようとするの?」
その問いが、胸に刺さった。
まっすぐで、優しくて、残酷なほどに正しい。
オレは少しだけ笑って、首を横に振った。
「全部、一人で背負うわけじゃないよ。
……でも、最終的に誰かが責任を取る必要が出てくることが社会にはある。
その時に、オレはそこから逃げることができない人間なんだよ。
オレが逃げる代わりに誰かが責任を負わされるような事は絶対に許されない。
そんな事になれば、何よりもまず、オレ自身がオレを許すことができない。
だから、どの道オレは逃げられないんだ。
それを――保奈美には、分かってほしい」
そう言って、彼女を抱き寄せた。
今度は、逃げなかった。
彼女の小さな手が、ゆっくりとオレの背に回された。
その温もりに、
ようやく、少しだけ息ができた気がした。
「……まだ、直也さんが言ってること、全部は分からないよ」
「うん」
「でも――いつか全部、正直に話してね」
オレは小さく頷いた。
「それを約束してくれるなら……今は一旦許してあげる。
――あと、私からも一つだけ言っておくね。
どんな事があっても保奈美は直也さんのそばを絶対離れないから
直也さんが責任を負う時には……保奈美も一緒にその責任を負うからね」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥が静かにほどけていった。
ありがとう。
心の中で、そう呟いた。
その夜、
リビングに布団を敷き、
ようやく少し落ち着いた保奈美を抱き寄せた。
保奈美は全て任せるとでも言うようにオレに身を寄せた。
オレは保奈美を抱き寄せたまま、ようやく少しだけ眠ることができた。
眠りの縁で、
オレはひとつのことだけを強く祈った。
――どうか、この子を失ってしまうような未来が来ませんように。
保奈美の呼吸が、胸の上で静かに揺れる。
それが、世界でいちばん確かな鼓動に感じられた。




