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第65話:おかしいよ!(一ノ瀬保奈美)

 ――帰ってきた。

 ほんとうに、帰ってきたんだ。


 あの夜の六本木。

 みんなが涙を流して笑っていたあの瞬間。

 私は、笑顔で喜ぶしかなかった。


 笑って、拍手して、

 「おかえりなさい」って言葉を口にして。

 でもその笑顔の裏で、

 胸の奥ではずっと別の痛みが波打っていた。


 直也さんは、笑っていた。

 穏やかに、いつもみたいに。

 けれど――その目の奥にかすかに宿しているものが今朝までと違う。


 前よりも、静かで。

 前よりも、遠くて。

 そして前よりも、ずっと重たい。

 まるで、何かを一人で背負っているのを必死に隠すように。


 その夜、私と莉子さんと直也さんは一緒に帰る予定だった。

 でもホテルを出たところで、瑠衣さんが言った。


「今日は警察が自宅までお送りします。

 車をご用意していますので、どうぞそのまま」


 ライトバンタイプの送迎車。

 最後尾座席に私と莉子さん。

 その前に直也さんと瑠衣さん。

 運転するのは警官の方。


 車内には、穏やかな沈黙だけがあった。

 夜の東京の光が窓を流れていく。

 どこか現実じゃないような、夢の続きみたいな時間。


 到着すると、瑠衣さんは笑顔で言った。


「明日からは普通に出社していただいて構いません。

 尚、この近隣は当面、重点警邏地域となりますのでご安心ください」


 それから、私の方を振り向いて。


「保奈美ちゃん。本当にキレイですね。

 今度ルイとお話させてくださいね〜♡ ではでは〜」


 送迎車から手を振って、去っていった。


 家の中は、静かだった。

 靴を脱ぐ音、蛇口の音、シャワーの音。

 どれもいつも通りなのに、

 どこか全部が “違う” 。


 お風呂から上がると、

 リビングで直也さんがソファに座っていた。

 ジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくって、

 グラスの水を口にしている。


 その横顔を見た瞬間、

 胸が苦しくなった。


 ――やっぱり、何かが変わってる。


 私は息を整えて、

 いつもより少しだけ強い声で言った。


「ねぇ、直也さん。……本当は、何があったの?」


 直也さんはゆっくりと私を見た。

 穏やかな微笑み。

 でも、それが逆に怖かった。


「何もないよ。もう大丈夫だ」


 その言葉。

 それを聞いた瞬間に、

 私は、全身の力が抜けた。


「……嘘!」


 そう言うと、直也さんが立ち上がり、

 私をそっと抱きしめようとした。


 でも――私は、スルッとその腕を抜けた。


「……そんな風に、どうして誤魔化すの?」


 声が震えた。

 もう止められなかった。


「なんで……本当のことを言ってくれないの?」

「いつだって、直也さんはウソなんてつかなかったのに……」

「今は、全部……全部、全部、ウソで固めているよ……」


 視界がにじんで、涙が溢れた。

 止めようとしても止まらなかった。


「保奈美には分かるんだよ。

 だって、直也さんの事を、誰よりも分かっているもん……」


 泣きながらそう言った。

 そして初めて、直也さんは目を伏せた。


 何も言わない。

 言葉を探しているのか、

 それとも――何も言えないのか。


 その沈黙が、何よりも痛かった。


 私はその場に立ったまま、

 涙を拭おうともせずに呟いた。


「……なんで何も言ってくれないの?

 そんなの……やだよ……おかしいよ……」


 夜の静けさが、

 あまりにも優しくて、あまりにも残酷だった。


 ただ、どこかで聞こえる時計の音が、

 まるで、未来へと進む音みたいに響いていた。


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