第64話:生きている人たちの夜(谷川莉子)
――扉が開いた。
ワインの香りと、夜の春風が流れ込む。
次の瞬間、誰かの息が止まった。
誰かの手が口元を覆った。
そこに――直也くんが立っていた。
いつものスーツ姿。
いつも通りにきちんと着こなしている。
そして普段通りの穏やかな笑みもそのままだった。
「……ただいま」
その一言で、世界がほどけた。
誰よりも先に動いたのは、玲奈さんだった。
彼女は椅子を倒す勢いで立ち上がると、
まっすぐ駆け寄って――そのまま、彼の胸に飛び込んだ。
「……っ……っ、ナオヤ……っ……!」
嗚咽。
もう言葉になっていない。
ただ名前だけを呼ぶように、何度も、何度も。
涙が頬を伝い、直也さんのシャツに落ちていく。
その音さえ、やさしく響く気がした。
直也さんは何も言わなかった。
ただ、彼女の肩を抱き寄せ、
手のひらで背中をゆっくり撫で続けた。
「……よかった……ほんとによかった……」
亜紀さんが口元を押さえながら泣き笑いしている。
麻里さんはグラスを強く握ったまま、
目尻をぬぐいながら小さく頷いていた。
侑里香さんは隣で顔を覆い、
「もう……本当に良かったです……」
と泣きながら笑った。
私は――その光景を、ただ見つめていた。
なんだろう、胸の奥がじんわり温かいのに、
なぜか少しだけ、痛かった。
直也さんは全員を見渡し、
少し照れたように笑った。
「……みんなに本当に心配かけたな。もう大丈夫だ」
その声に、全員の肩が一斉に震えた。
そして――自然に拍手が起きた。
涙のまま笑いながら、みんながグラスを掲げる。
亜紀さんが小さく声を出した。
「それじゃ――みんなで言おうか」
「「「「「「おかえり、直也〜!!」」」」」」
グラスの音が、静かな夜に響いた。
その音は、まるで鐘の音みたいに胸に沁みた。
私は笑っていた。
玲奈さんも、麻里さんも、侑里香さんも、瑠衣さんも。
全員が笑っていた。
保奈美ちゃんも、優しく笑っていた。
ただ――ほんの一瞬だけ。
直也さんがみんなの顔を見渡して、そのまま視線を宙に泳がせたその時。
笑っているはずなのに、その笑顔の奥に、少しだけ“静けさ”があった。
ううん――おそらく、気のせいだよ。
だって今は、こんなに幸せなのに。
きっと疲れているんだよ。
無理もないよ……。
「ねぇ、莉子」
麻里さんが笑いながら言った。
「今日は飲みましょう。
ワイン、開けて!」
「うん!」
ボトルが開く音。
グラスを満たす音。
笑い声と涙が混じる夜。
その中で私は、ほんの少しだけ――心の奥でさざめく微かな波を感じていた。
でも、それでもいいと思った。
今は、ただ。
“帰ってきてくれた”。
その事実だけを、何よりも信じたかった。
グラスが何度も触れ合う音が響いて、ようやく店の空気が日常の色を取り戻しつつあった。
涙はもう乾きかけていた。
それでも笑うたび、みんなの目尻に光る跡があった。
笑いながら泣いて、泣きながら笑って。
そんな夜があっても、いいと思った。
――生きて帰ってきてくれたのだから。
麻里さんがグラスを置き、ふと向かいに座る瑠衣さんを見た。
その手には、しっかりとロゼのグラスがある。
「……ねぇ、瑠衣。
仕事中なのに大丈夫なの?」
問いかけに、瑠衣さんは目を丸くして、
すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「え〜? だってルイ、今はGAIALINQに “出向中” なんですよ〜?
みなさんが飲んでいるのに〜ルイだけ飲んじゃダメって。
麻里先輩は鬼畜ですか〜? まぁ大学時代から知ってましたけど〜♡」
「はぁ!? 誰が鬼畜? それはあんたでしょうが!」
麻里さんのツッコミが炸裂して、
みんな一斉に吹き出した。
笑いの波が一度広がり、
そして私が何気なく口にした。
「でも……出向って、今回の件の対応で終わりなんじゃないの?」
その瞬間――。
瑠衣さんはグラスを持ったまま、悪戯な目でこちらを見た。
「何言っているんですか〜?
ルイはセンパイを守るために〜♡
これからは、朝起きた時から〜夜一緒に寝るまで〜守りますよ〜♡」
店内が、一瞬で静まり返った。
「……は?」
「……今、なんて?」
亜紀さんが眉を上げ、麻里さんがグラスを握りしめ、
玲奈さんがまだ涙の跡を残したまま絶句していた。
「瑠衣ぃぃぃぃ!」
麻里さんが立ち上がり、
「本当にーいい加減にしろぉぉぉぉ!!」
と叫んだ。
侑里香さんが慌てて間に入り、
「ちょ、ちょっと待ってください! 落ち着いて〜!」
その後ろで亜紀さんは呆れ顔で「もう……」とため息をつきながら笑っていた。
瑠衣さんは両手を挙げ、
「ひゃ〜♡ ちょっとしたジョークですってば〜♡
センパイ、助けてくださいよ〜」
と直也さんにしなだれかかるフリ。
「瑠衣。お前がややこしいこと言うからだろう」
直也くんが本気で困ったように顔をしかめる。
それがまた面白くて、全員が再び笑いの渦に巻き込まれた。
笑いながら泣いて、泣きながら笑って。
その繰り返し。
――その光景を見ながら、私はふと思った。
あぁ、こうして “怒れる” って幸せなんだなって。
誰かを本気で叱ったり、
からかったり、
大声で笑ったりできるって、
生きてる証拠なんだ。
少し前まで、
直也くんが無事に帰ってくるかどうかさえ分からなかったのに。
今はこうして、全員が笑ってる。
グラスを掲げて、声を重ねて、光の中で笑っている。
――それだけで、十分だと思った。
私はグラスを持ち上げ、そっと心の中で呟いた。
おかえり、直也くん。
本当に……ありがとう。
そして、夜はようやく “生きている人たちの夜” に戻っていった。




