第63話:痛ましさの核心(篠原瑠衣)
――夜の麻布署を出た時、空気が少しだけ重く感じた。
麻布署の中で急ぎ電話でセンパイは会社に報告を入れていた。
そして詳細は明日朝改めて報告する事になった。
もちろんその際は私も同席するつもりだ。
春の風はやわらかいはずなのに、肌に触れるたび、どこかひりつくような痛みがあった。
センパイの隣を歩きながら、私はずっと黙っていた。
ビルの谷間に流れる夜風の音と、遠くのサイレン。
それが、やけに現実味を持って響いていた。
麻布署の署長室で行われた“聴取”。
――いや、正確には記録に残らない“ヒアリング”。
形式上は淡々としていた。
角田先輩はあくまで冷静に、公式の立場と、それから旧友としても。
けれど、私は途中で呼吸をするのも忘れてしまった。
あの封筒に記された言葉。
> 「覇権を握る者は、時間を失う」
> 「信頼を築く者は、未来を得る」
中南海からの直筆。
外交上、いや、国家の構造そのものに関わる一通。
それを――センパイが自分の手で受け取った。
しかも、それはあくまでも一ノ瀬直也 “個人として” 。
……つまり、それは日本国家の “盾” でも “楯” でもなく、
ただ一人の人間の胸に押し込まれた “時限装置” だ。
私は愕然としていた。
キャリアとして、警察官として、米中対立の中で自国がどれだけ繊細なバランスで生きているか、骨の髄まで知っている。
GAIALINQが日米共同の「希望」であることも理解していた。
サンフランシスコでの米国大統領の演説を、ニュースで見た。
――「これは米国と日本という、環太平洋に立地する両国だからこそ成し得るのだ!」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
この国にも、ようやく “世界の中心で闘う夢” があるのだと見せつけてくれたのだ。
そして、その中核にいるのが、一ノ瀬直也。
私がずっと憧れてきたセンパイだ。
だけど今夜、そのセンパイが――
“敵にならない” という選択肢を、封筒一枚で事実上強いられた。
短期的には、それが最善の防御になる。
けれど、中長期では必ず毒になる。
米中対立の相互不信という大きな構造の中で折り重ねられる可能性がある毒――。
まるでミルフィールのように不信が重なる可能性が否定できない。
それは誰も気づかない形で、少しずつ蝕み、全身に回ってしまうのだろう。
そしてセンパイは、それを承知で受け取った。
「己一人において甘んじて受けとめる」という覚悟とともに。
――そんな理不尽が許されて良いのだろうか?
胸の奥で、何かが燃えるように熱くなった。
怒り。
悲しみ。
悔しさ。
それがどれなのか、自分でも分からない。
むしろ一番妥当な感情は――痛ましさ……。
あの静かな声で言い切ったセンパイの姿が焼き付いて離れなかった。
「会社にも家族にも波及させる事だけはしない」
――その瞬間、私は理解した。
この人は、どこまでいっても “最後は自己犠牲の人” なのだ。
理性が止めても、心が止まらなかった。
“守りたい” という思いが、警察官としての職務を超えて広がっていった。
でも――今、この感情を顔に出すわけにはいかない。
GAIALINQの女性陣が見ている前で、
私が少しでも本当の自分の感情を露呈すれば、すぐに空気が変わってしまう。
それだけは絶対ダメだ。
だから、私は笑うことにした。
私の武器であり、仮面である“あざとさ”を、
今こそ最大限に使う時だった。
――ありがとう。あざとい自分のスタイル。
今ほど、自分の立ち居振る舞いに感謝した事はかつてなかった。
センパイの隣を歩く。
いつものように軽い口調で話しかけ、
「ルイ、センパイと並ぶの久しぶりです〜♡」なんて、
あえて場違いな言葉を選んだ。
センパイは少しだけ笑って、「そうだな」と返した。
その一言で十分だった。
この人にとって、私の軽さが少しでも救いになるなら――
それでいい。
そして、私はたった今一つだけ決めた。
この人を、守る。
どんな形であっても。
それが、たとえ最終的に国家の意思に反することだとしても。
それでも、私は――この人の味方であり続ける事を。
その決意を胸の奥に焼き付ける事で、
私は、やっといつもの笑顔を取り戻した。
ケンジ エステイト ワイナリーの灯りが見える。
ドアの向こうには、センパイを待つ仲間たちがいる。
もう、何も悟らせてはいけない。
私は肩をすっと張り、笑顔を浮かべた。
「センパイ。
さ、みなさんのところに帰りましょう♡」
あざとく、眩しく。
けれど、心の奥では――
泣きたくなるほどに、本気だった。




