第67話:誰も踏み込めない領域へ(篠原瑠衣)
朝の東京は、まだ少し霞んでいた。
冷たい光がビルのガラスに反射して、
新しい一日を無理やり始めさせようとしているようだった。
私は少し早めに出社した。
でも、もうセンパイ――一ノ瀬直也はデスクにいた。
黒のスーツに、淡いブルーのシャツ。
ノートPCの画面に目を落としながら、昨晩の出来事なんて、最初からなかったみたいな顔で資料を整理している。
「……保奈美ちゃんは、大丈夫でした〜?」
思わずそう聞いてしまった。
心配というより、確かめたかった。
大丈夫だと、そう言って欲しかっただけの問いかけだった。
センパイは手を止めず、ほんの一瞬だけ、こちらに視線を寄越した。
「――全部、見透かされていたよ」
静かな声。
でもその奥に、何かがひっそりと沈んでいた。
私は言葉を失った。
何を返せばいいのか、分からなかった。
センパイはノートPCを閉じると、
「これから取締役会議室だ」とだけ言い残し、そのまま歩き出した。
私はただ、その背中を急ぎ追いかけた。
昨晩までの迷いは、もうどこにもなかった。
***
取締役会議室には、五井物産の経営層が揃っていた。
社長、副社長、専務、常務、そしてITセクターを統括する本多取締役。
私はセンパイの護衛役でもあった事から特に末席に控えさせてもらった。
重い空気の中で、センパイは一礼し、静かに報告を進めた。
「――以上が昨晩の一連の経過となります。
中国側とは、あからさまな対峙を回避いたしました。
とりあえずは一旦の猶予を得た状況と考えています」
低く落ち着いた声。
けれどその穏やかさが、逆に胸を締めつけた。
社長が腕を組み、
深く、ため息のように言葉を落とした。
「……君は、米国大統領からチャレンジコインとシークレットサービスへの連絡コードを渡されている身の上で、今度は中国側からそんなものを背負わされてしまうとはな……」
――その瞬間、
私は息を飲んだ。
頭が真っ白になった。
チャレンジコイン?
シークレットサービスへの連絡コード?
チャレンジコインという言葉だけは知っていた。
もともと米軍が、部隊演習や作戦への参加の記念として、その部隊の指揮官・上級曹長等が自費で作成、所有したり、部隊に配属された新兵に上官が授与するもので、 “仲間の証” といった意味合いを持っているという事は知っている。
しかしそれを米国大統領から渡されているというのは尋常ではない。
ましてシークレットサービスの連絡コードというのは。
つまり必要に応じて米国の最高意思決定機関にダイレクトに助力を求めるルートをセンパイは持っているという事なのだろうか?
私はその時になって昨年夏のサンフランシスコでの米国大統領の式典演説を思い出していた。――おそらくそのタイミングでこれらは授与されたのだろう。
ようやく全てを理解した。
昨夜、センパイが見せた沈黙の意味を。
彼が、どれほどの痛みを伴う覚悟を抱えさせられてしまったのかを。
私はキャリア警察官僚として、
米中対立の狭間でこの国がどれだけ危うい立場にいるかを知っている。
米国の最高意思決定者から信頼を寄せられている人物が、もし中南海に住む中国の元高官とのパイプも持っているとするとどうなるだろうか。
相互の不信感は決定的に解消できなくなる。
そしてその狭間でGAIALINQの存在感が増していく場合、相互ともにその不信の矛先をセンパイ自身に対して向けやしないだろうか。
まさかそんな危うい立場に――このセンパイが立っていたなんて。
社長がゆっくりと、言葉を継いだ。
「それで? 君は、これからどうするつもりだね。
GAIALINQプロジェクトだけでなく――こうなってしまっては、君自身のことも含めて……」
センパイは、まっすぐ前を向いた。
「さしあたり、GAIALINQを覆いそうな火の粉を払う必要があると考えます。
そこで社長に一つお願いがございます。」
「お願い?」
「今の私だからこそ、直ちにできることがあると考えます。
――この際、五菱商事の代表である先方の住田会長と、直接対面にてお話をさせていただく場を作っていただけないでしょうか?」
会議室の空気が、一瞬、凍りついた。
社長が眉をひそめた。
「会ってどうするつもりだね?」
センパイは、わずかに間を置いて言った。
「既に中国側までが洋上風力発電に関する政界側の状況を把握していること、更にそれにまつわる不都合な証拠を保持している可能性が高く、そうした状況を警察も既に把握してしまっている事実を、率直にお伝えします。
そして、私が保持するチャレンジコインと、シークレットサービスへの連絡コードを直接お見せしようと思います。
これを “私に使わせないでいただきたい” と申し上げ、ご自身の進退と併せて五菱商事の独断で対外公表を実行いただくよう、お願いするつもりです」
――静寂。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
社長は、しばらく何も言わなかった。
会議室の空気が、音もなく沈んでいく。
窓の外では、まだ薄曇りの光がビルの壁面をなぞっていた。
時計の針の音だけが、やけに鮮明に響く。
「――五菱商事の会長が、果たして自らの進退を賭けてまで、洋上風力発電事業からの撤退を、対外公表すると決断できるだろうか?」
社長の声は低く、
しかし明らかに“試す”ような響きを帯びていた。
センパイはわずかに息を吸い、静かに答えた。
「仮に応じなかった場合――。
私としては米国大統領閣下に目下の状況についてご相談するより他ありません。
もし、そのような事になれば、米国での五菱商事のビジネスは、その時点で否応なく相当のリスクにさらされることになります。
それを、あちらの会長程の方が、ご理解頂けないとは思えません」
その声には、迷いがなかった。
“脅しの意図” ではなく、“事実の伝達” の為に対座しようとしている。
その決心の静けさに、私は思わず身じろぎもできなかった。
社長は深く椅子の背にもたれ、
腕を組んだまま長い沈黙を置いた。
副社長も、専務も、
誰一人として口を開かない。
やがて、社長がゆっくりと頷いた。
「……どういう場所にするのが妥当かを含めて検討する。
方針そのものについては、了解した」
静かな一言だった。
しかし、それはこの場にいる全員にとって、
ひとつの“合図”になった。
センパイは深く一礼した。
その所作の中に、わずかな緊張と、
それ以上に、凜とした覚悟が滲んでいた。
私はただ、
その背中を見つめるしかなかった。
――この人は、また一歩、誰も踏み込めない場所に進んでいくのだ。




