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第60話:重すぎるメッセージ(一ノ瀬直也)

 赤ワインの表面に、照明の灯りが揺れている。

 琥珀のグラスの中で、波紋が一筋だけ揺れて止まった。


 劉美琳が、グラスの脚を指先で回しながら言った。

「直也さん。

 中国という国は、よく “一体となって単一のアプローチをしている” と誤解をされます。

 ですが、それは正確な理解ではありません」


 オレは軽く頷いた。

「そうでしょうね。

 毛沢東がいて、周恩来や鄧小平がいた。

 現政権の中枢がどうであれ、全てがまったく同一のスタンスとは限らない」


 彼女は静かに微笑み、同意を示した。

「ええ。

 ――私も、なかなか難しい立場なのです。

 公式な立場としては、今後あなたが取り組まれているGAIALINQに関して、ご相談したいことも、いろいろと出てくる可能性があります。

 それも、あなたにとって必ずしも喜ばしくない内容が含まれる場合も……」


 オレは一拍置いて、グラスをテーブルに戻した。

「それについては、お話を正式にお伺いしない限り、今なんとも言い難いですね。

 ただ、オレは基本的に “敵を作らない” スタンスだということは、申し上げておきたいと思います」


 劉美琳は、その言葉を聞いて微笑した。

 グラスを傾け、深紅の液体を光にかざす。

「あなたは間違いなく、今後この国だけでなく、世界のエネルギー問題やAI政策にとって、最も重要な存在の一人となるでしょう。

 そして――そういう方と “友好的なスタンスで接し続け、信頼を得ながら、穏当な範囲でのメリットを享受したい” と願う人もまた、私の国には存在します」


 彼女はグラスをテーブルに置き、少しだけ身体を前に傾けた。

「私の遠縁の高齢者の方で、元中枢の高官だった方ですが、やはりそういう考え方をする人がおります。


 つまり、非公式な立場として――その方からの “メッセージ” を、今日はお渡ししたいと思います」


 そう言って、劉美琳は胸ポケットから、淡いクリーム色の封筒を取り出した。

 厚みのある和紙のような質感。

 封緘には、朱の印影。


「その方――私の遠縁の方ですが――その方が機会があれば是非、直也さんに北京までお越しいただき、直接お会いしてお話させていただきたいと申しております。

 これは、その際に必要となる紹介状と、それから――中南海に入るためのパスとなります」


 ……中南海。

 その名を聞くだけで、空気がわずかに重くなる。

 北京の政権中枢。

 外交官でも容易に入ることのできない場所。


 劉美琳は胸ポケットから、淡いクリーム色の封筒を取り出した。

 厚みのある和紙の手触り。

 封緘には朱の印影。

 彼女の指先がわずかに震えているように見えた。


 オレはグラスの脚を軽く持ち上げ、深紅の液面をただ見つめた。

 沈黙の中で、心の中の計算が働く。


 この封筒は、

 敵意ではない。

 けれど、好意によるものではない。

 というよりも、こちらを推し量る試金石であり、敵味方識別装置のようなものだ。

 ――そして中長期にわたり毒となり得るものでもある。


 いずれにせよ――。

 ここで拒絶すれば、GAIALINQはその瞬間から対立構図の中に放り込まれる。

 まだコアとなるプラントも施工途上で、AIデータセンターの着工すら出来ていない段階にも関わらずだ。


 ――そうなれば、日本も、米国も、そして中国も、誰も得をしない未来だけが待っている。


 オレはゆっくりと息を吐き、

 視線を上げた。


「……あなたはお分かりになっているのでしょうか?

 今、これが、どれだけ酷い事を、オレに対して強いているのか――ということを」

 語気が強くなるのを抑えきれなかった。


 その言葉に、劉美琳は短く目を伏せた。

 そして、穏やかに頷いた。


「ええ。分かっています。

 でも――それでも、お渡ししなければならないと判断いたしました。

 その元のメッセージを書かれた方も同様のお考えです。

 これは “取引” ではありません。

 私の国と、それから私自身が、

 あなたという人を敵に回さないための “約束” なのです」


 オレは黙って聞いていた。

 その声の奥には、計算ではなく、奇妙な誠意のようなものがあった。


「……分かりました。受け取りましょう。

 ……というよりも――それ以外の選択肢なんて存在しないのだから」


 封筒を受け取った瞬間、

 紙の軽さに似合わないほどの重みが指先に残った。

 そして一瞬――オレは保奈美の優しい笑顔を思い浮かべた。

 それから、亜紀、玲奈、麻里、侑里香、莉子、それ以外のGAIALINQ関係者の笑顔も。


 劉美琳は小さく息を吐き、

 その表情にわずかな安堵が浮かんだ。


「ありがとうございます。

 あなたが、どこの国とも敵対せず、

 GAIALINQを “未来への架け橋” として存続させるための、現時点での最善の選択だと思います」


「……その橋の行く先には、最後はオレがただ一人で歩いている姿しか見えませんけれどね」

 オレがそう返すと、彼女はかすかに笑った。


「橋は、一度渡ったからといってなくなるものではありません。

 最初に誰かが歩き出し、やがて必ず後に続く人も増えていくものです。

 ――あなたがその最初のひとりであったとしても……絶対にあなたを一人だけにはしません」


 彼女は少し声を落とした。

「このパスの効力は形式上は半年です。

 けれども、私は更新を続けます。

 どんな情勢になっても、あなたの名前を消させません。

 それは私の命に変えてもお約束します。

 今夜、ここで私が口にしたことは、いずれ “あなたを守る側” として、その結果で証明してみせます」


 その言葉は、官僚のものではなかった。

 人としての静かな誓いのように聞こえた。


 オレは軽く会釈した。

「……ありがとうございます」


 劉美琳は腕時計を見た。

「そろそろ時間が来てしまったようです。

 次にお会いする時は、もう少し穏やかな話ができるといいのですが」


「その時は、ご馳走してください。

 今日はオレが処理しておきます」


「ありがとうございます。

 それでは次は私がご馳走をさせていただきたいと思います」

 彼女は立ち上がり、深紅のスーツの裾を整えた。

 扉の前で一度だけ振り返り、

 「――きっと、また」と短く言って去っていった。


 残されたのは、

 グラスの中でわずかに揺れる赤。


 オレは封筒を内ポケットにしまい、

 小さく息を吸った。


 ――今、直ちに、誰も敵にしない。

 それが、いまこの瞬間の最善の答えだった。


 それでいい。

 それで、いいはずだ。


 けれど、胸の奥のどこかで、

 何かが静かに音を立てて遠ざかっていくのを感じた。


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