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第59話:センパイの見守り(篠原瑠衣)

 ――グランドハイアット東京を出て、坂を下りた。


 夜の風が、頬を撫でる。

 六本木ヒルズのビル群が黄金色に光り、交差点には外資系企業の社員と観光客が入り混じっている。

 この街はいつも、緊張と欲望が隣り合わせだ。

 でも今この通りを行き交う人の中には少なくない捜査員が含まれている。


 ケンジ エステイト ワイナリーの前に着いた時。

 私は小さく深呼吸をして、スーツの上着を正した。


 ――ここが、もうひとつの現場。


「遅くなりました〜♡ ルイ登場〜!」

 軽い調子で入室した瞬間、

 亜紀さん、玲奈さん、麻里さん、侑里香さん、莉子さん、そして、事前情報で見ていたセンパイの義妹――保奈美さんの視線が一斉に向いた。

 その表情は、冗談が通じる空気ではない。


「すぐモード切り替えま〜す」

 とだけ言って、私は折りたたみスマホを展開した。

 パタリと音を立てて、タブレットサイズに広がる。


「――これ、警察庁の定点監視システムです。

 本来、内部限定閲覧ですが、結果的に見られてしまう分には仕方ない……ってことで」


 “ルール違反” という言葉は使わなかった。

 けれど、皆、私の意図を察したようだった。


 画面には、ホテルロビー、地下階段、ワインバー周辺の数カメラの映像が分割表示されている。

 静かなロビーに、黒塗りの車両が止まり、人物の影が行き交う。


 イヤピースを耳に当て、警察無線をオンにする。

 すぐに短い通信が流れた。


「対象らしき女性、赤いスーツ姿、ホテルに徒歩で入る模様」

「指揮車了解。警視庁より各位、対象の特定を急げ」

「対象らしき女性を“対象”と断定。追跡を開始する」


 無線の音が低く部屋に響くたび、

 亜紀さんたちの身体が硬直する。

 私は無意識に画面のズームを操作した。


 ――映った。

 赤いスーツ、緩く束ねた黒髪。

 ホテルのカメラ越しに、”劉美琳“ と名乗る女の姿。


「本部より各位、対象を検索したが、過去データと一致せず。

 繰り返す。過去データを不一致」


「……国内で検知している工作員とは一致しなかったみたいですね」

 私は、無線から聞こえた報告に反応してつぶやいた。

「どういうこと?」

 玲奈さんが問う。

「登録リスト外、つまり正式な滞在ルートを通ってる可能性が高いです。

 外交パスでしょうね。

 おそらく相当上のポストである可能性があります」


 画面の中で、センパイと劉美琳が向かい合って座った。

 音声は拾えない。

 だが、視線のやり取りの静けさで、会話の温度が伝わってきた。


 誰も言葉を発しなかった。

 息を詰める音だけが聞こえる。


 麻里さんが腕を組んだまま低く言った。

「……交渉の形ね。

 少なくとも争いにはならなそう」

 亜紀さんが頷く。

「でも……何を話してるのかは、誰にも分からない」


 私も画面から目を離さなかった。

 ――直也センパイ。

 昔から、こういう時ほど冷静だった。

 

 私は公認サークルだけでなく、センパイが参加しているインカレサークルにも所属した。

 少しでもセンパイとの接点を多くしたかったからだ。

 国家公務員試験の準備もあったけれど、センパイとの時間はずっと重要だった。

 そしてセンパイは非常事態になった時に驚く程冷静に対応する。

 インカレサークルで、被災地への災害援助を進めていた時もそう。

 みんなが混乱している中で、一人だけ静かに全体を見て、冷静に指示を出していた。

 小児病棟の子どもたちの為のカラオケコンサートもきちんと企画を進めていた。

 そして自分自身も素敵な歌を披露していた。

 私はその姿に憧れた。

 自分がどう努力しても届かないノーブルな人。

 何をやらせても完璧な人。


 センパイは女性にモテた。

 それは仕方がない。

 でもバカな女ばかりで、どいつもこいつも数カ月も持たなかった。

 センパイはあれだけの人だから、いつも忙しい。

 バカな女に時間なんて割ける筈がない。

 私が唯一イヤだったのは麻里さんが付き合っていた時。

 この時ばかりは本当にマズいと思った。

 毎日別れて欲しいと願ったものだ。

 そして神様は私の願いを聞き入れてくれた。

 結局的に麻里さんは、他と同じようにバカな女だったのだ。

 私はだからチャンスをじっと待っていた。

 待っていたのに……。

 結局大学時代にはその機会は得られなかった。


 でも今、画面の中のセンパイは、同じ時間の中にいる。

 私が守る任務の対象として。

 私にやっと巡ってきたチャンス。


 ――だから、失敗なんて事だけは絶対に、絶対に許されない。


 その時、無線の音が急に硬質に変わった。


「至急、至急、こちら警視庁07。近接大使館よりハイヤーが出る模様」

「本部了解。周辺警戒中の捜査員は当該ハイヤーに注視せよ」

「至急、至急、当該ハイヤーはホテルに向かっている模様」


「……何?」

 思わず声が漏れた。

 私は画面を切り替え、別角度のカメラを呼び出す。


 ホテル前の通りに、黒い車列。

 外交ナンバー。

 ――これは、想定外だ。

 こんな近い距離でわざわざハイヤー出すってどういう事?

 もしくは支援する用意って事も……。


「ちょっと想定外なんですけど……」

 私の声に、部屋の空気が一気に張りつめた。


「何? どういうこと?」

 玲奈さん。

「誰か来るの?」

 莉子さん。

「ええと……」

 私は眉を寄せ、イヤピースを押さえる。


「ホテルロビー班。こちらに特に動きなし」

「地下フロア今のところ異常なし」

「本部了解」


 それでも、胸の鼓動は速くなる。

 予定外の外交車両の動きは、どんなリスクも孕む。

 相手が中枢の人物であればあるほど――。


 保奈美さんは両手を重ねるようにして胸元を押さえていた。

 瞳を閉じて、祈るように。


 映像の中では、

 まだセンパイと劉美琳が、静かに向かい合っている。

 互いに一歩も動かず、まるで盤上の二つの駒のように。


 私は画面を見つめたまま、心の中で呟いた。


 ――センパイ。

 絶対に……無事で。


 その瞬間、無線が再び鳴った。


「本部より現場指揮車へ。対象会話中。状況変化なし」

「現場指揮車了解。各班、監視続行せよ」


 私は息を吐いた。

 でも、胸の奥の緊張はまったく緩まなかった。


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