第56話:見送りの涙(宮本玲奈)
17時15分過ぎ。
五井物産大手町本社ビル地下の配車エリアには、静かな緊張が満ちていた。
照明の白い光が、黒塗りのハイヤーの艶やかなボディを反射している。
空気がひんやりと張りつめ、靴音だけが響く。
――もう、すぐだ。
この扉が開けば、直也は行ってしまう。
瑠衣が手元の無線で短く連絡を終えると、
「対象は準備完了」と淡々と報告した。
彼女の声は不思議と落ち着いていて、どこか安心感があった。
それでも――私は、どうしても怖かった。
「玲奈、大丈夫?」
亜紀さんが隣で私の腕にそっと触れた。
「ええ……」
と答えようとしても、声が出ない。
喉が乾いて、言葉が出ないのだ。
私は理屈では理解している。
警察庁の直接指示による警視庁の最高レベルの警護体制。
外事、捜査一課、麻布署の混成チーム。
これ以上、完璧な防御など存在しない。
でも――。
直也があの車に乗って、
もう二度と戻ってこなかったら、どうしよう。
その想像が一瞬でも脳裏をかすめた瞬間、
胸がぎゅっと締めつけられた。
私は唇を噛んだ。
こんな時に泣いてはいけない。
泣いたら、彼の背中を重くするだけ。
でも――涙は、勝手に溢れてきた。
「……うぅっ……はうっ」
頬を伝う温かい雫を、手の甲で拭っても止まらない。
視界が滲み、黒いハイヤーがぼやけて見える。
私の中で、理性と感情の境界が崩れた。
ずっと冷静でいようと努めてきた分だけ、
いま、涙があふれて止まらない。
「玲奈……」
亜紀さんが小さく呼んだ。
麻里も黙って肩に手を置いた。
侑里香も、それから莉子もそばにいる。
誰も何も言わない。
ただ、同じ痛みを共有している。
その様子を、少し離れた場所から瑠衣が見ていた。
さっきまでの軽い口調は跡形もなく、
まるで別人のような穏やかな眼差しだった。
彼女は何も言わなかった。
泣いている私たちを責めることも、慰めることもなく、
ただ静かに、その場に立っていた。
――彼女なりに、理解しているのだ。
私たちが、どんな気持ちでこの人を送り出すのかを。
そして、直也がゆっくりと振り返った。
「……じゃあ、行ってくる」
その一言で、胸が崩れた。
言葉にならない思いが喉の奥で詰まる。
私はただ、震える声で言った。
「……直也。気をつけてね」
直也は、優しく微笑んだ。
いつもと同じ、穏やかな笑顔。
この笑顔が私の涙を止めた。
その横で、瑠衣が一歩前に出た。
姿勢を正し、10度の敬礼をした。
「皆さん。これより本官が一ノ瀬COOに同行いたします。
誓って、一ノ瀬COOをお守りいたしますので、どうかご安心ください。」
その声には、あのあざとさも、媚びも、なかった。
ただ一人の職業人としての誇りがあった。
そして、少しだけ柔らかい声に戻して、
「ルイは付いているので、安心してください♡」
と微笑んだ。
その一瞬、涙で滲んだ視界の中で、
私は確かに思った――。
この人、本当に直也を守るつもりなんだ。
ハイヤーのドアが開く。
直也が乗り込み、瑠衣が続く。
ドアが閉まり、
黒い車体がゆっくりと動き出す。
エンジン音が反響して、地下駐車場に静かな残響を残した。
私は胸の前で両手を合わせ、祈った。
神にでも、AIにでも、何でもいい。
――どうか、この人を、守って。
車がランプの上を通り、地上へ消えた。
「……行ったね。」
麻里が小さく呟く。
「ええ。」
亜紀さんが頷く。
侑里香と莉子もみんな頷いた。
私は涙を拭き、深く息を吸い込んだ。
そして、ハンドバッグを持ち直しながら言った。
「行きましょう。六本木へ。」
みんなは黙って頷き、すぐにタクシーへと乗り込んだ。
春の午後の光が、
ガラス越しに淡く揺れていた。




