第55話:警察庁の本気(神宮寺麻里)
――昼前のGAIALINQフロアは、朝の混乱が嘘のように静まっていた。
コーヒーの香りが漂う中、全員が資料を整え、常務が招集した「警護方針ミーティング」の準備をしていた。
篠原瑠衣――。
警察庁官房、つまり “官庁の中の司令塔” 。
たしかに、警察庁が本気で動いているという証左だ。
だが、それでも私はまだ彼女の “得体” を掴みきれずにいた。
さっきまであの調子――
“ルイです♡” “センパイ〜♡” などと全方位にあざとさを振りまいていたと思えば、
今はジャケットの袖を一段まくり、まるで別人のような鋭さで資料を開いている。
「それでは、GAIALINQ 一ノ瀬COOの本日の行動予定について、本官より警備方針を説明いたします」
―― “本官” !?
さっきまでの「ルイ、ルイ〜♡」とは別人じゃない。
玲奈と亜紀が思わず視線を交わす。
私は息を潜めて、瑠衣の口調と態度を観察した。
彼女は完全に切り替わっていた。
声は低く、滑舌は正確で、発言に無駄がない。
キャリア警察官としての訓練が染みついている――その印象だけで、全員の背筋が伸びた。
「一ノ瀬COOは、17時30分前には社用車で本社を出発。
グランドハイアット東京には17時55分到着予定。
本官が同行し、車両は警察庁手配のハイヤーを使用します。
また、ホテルロビーから地下のワインバーまでの動線は、警護班が先行確認済み。
建物内外の要所には、すでに警視庁捜査一課、所轄署及び外事の混成チームが配置されています。
本事案の現場指揮は角田が担当するのはご存知の通りです」
完璧な説明だった。
まるで官邸の記者会見のような声の張り。
誰も割り込めない。
「なお、店舗前後の導線についても、警備上の理由から一般通行人を装った所轄署の警察官を数名以上配置しています。
――以上が現時点での一次警備計画です」
全員、息を呑んだ。
あの “ルイ♡” がここまで切り替えられるとは。
だが、そんな緊張の空気を破ったのは、やっぱり侑里香だった。
「えっと……その……あの、私たち、ケンジ エステイト ワイナリーで……その、直也さんが無事に戻られるのを、少しでも近くでお待ちしたいと思ってて……」
その言葉を聞いた瞬間、瑠衣の眉がピクリと動いた。
「……はぁ?」
声のトーンが一段低くなった。
室温が下がった気がした。
「何を言ってるんですか?
日本の警察舐めていますか?
警察が全力で警備している以上、センパイに危険なんて120%あり得ません。
“何かあったらどうする” なんて考える必要はゼロです。
そんなこと、相手が少しでも匂わせた瞬間に――狙撃しますよ」
その言葉に、侑里香の顔が青ざめた。
「えっ……そ、狙撃……?」
「はい。狙撃です。」
瑠衣は事務的に言い切った。
「外交官であろうと、正当防衛の枠内での射撃なら問題ありません。
現場指揮官――角田の判断で即時実施します。
今回はその前提でのフォーメーションを組んでいるとお考えください」
玲奈が小声で「……なんか、ものすごい人来ちゃったわね」と呟く。
私は心の中で深くため息をついた。
――怖いほど、正しい。
でも、この女の “正義” は、人を巻き込む。
侑里香は何とか言葉を続けた。
「で、でも……私たちも、その……同じ気持ちで……直也さんをGAIALINQメンバーとしてお待ちしたいだけで……」
瑠衣はふと微笑んだ。
それは一瞬、あの “ルイモード” に戻った笑顔。
「なるほど〜♡
でもでも〜、ルイもセンパイの無事の帰還を一緒にお祝いするなら〜、まぁ特別にOKしてもいいかな〜!
まぁ何れにしても、センパイをエスコートする資格があるのはルイだけなので〜、モブさんたちは大人しくしてないと、公務執行妨害で逮捕しちゃうぞ〜♡」
侑里香:「……っは?」
玲奈:「うわ、火に油……」
亜紀:「だめ、侑里香、落ち着いて!」
案の定、侑里香の眉が跳ね上がった。
「モブって……私たちの事ですか!?」
「あら〜♡
もしかしてヤキモチ?
かわいい〜♡」
瑠衣は無邪気に笑った。
「でもごめんなさいねぇ〜。
そういえば、あなた確か、ミス三田でしたっけ〜?
まぁ、このミス東都には遠く、とぉ〜〜〜〜〜〜く、及ばない感じですね〜♡」
……空気が止まった。
玲奈:「あ、麻里。麻里。お願い。侑里香を抑えて」
私:「……侑里香。ほら、落ち着きなさい。機会が来るまで待ちなさい」
亜紀:「ダメダメ。機会なんか来ない。落ち着きなさい。相手は警察官だってば」
瑠衣は真顔に戻って直也の方を向く。
「センパイ♡。
おそらくセンパイが接触された後、相手が店舗から出た段階で職質をかけます。
ただ――間違いなく “外交特権” を振りかざしてきます」
直也は頷いた。
「……だろうね」
「はい。でも、問題ありません。
既に公安サイドとも “事前協議済み” という形にしてあります。
つまり――捕らえられないけれど、追える。
それが今回のゲームのルールです。
まぁ一旦は先方の大使館に入るでしょうけれど。
……むしろそこからがゲームスタートって事ですね」
「……あなた、思っていたよりずっと手練なのね」
私は少し瑠衣を見直していた。
瑠衣は小さく笑い、警察手帳を閉じた。
「センパイ。
ワインバーまでお迎えにあがりますので、それまでは店内に残っていてください。
もちろん周辺は警官が配備され続けていますけれど……絶対に、一人で動かないでくださいね」
最後の一言だけが、妙に優しかった。
その声を聞いた瞬間――私は悟った。
この女は、本気で直也を守る気だ。
そのやり方が、私たちとは全く違うだけで。
亜紀が「……複雑ね」と呟き、玲奈が「ええ、でも悪くない」と返した。
私は椅子に背を預け、静かに息を吐いた。
瑠衣の残り香と、微かな香水が混ざって空気を満たしていた。
――国家でも、恋でも、AIでも、そしてインテリジェンス工作でも。
一ノ瀬直也を中心に、新しい何かが確実に回り始めている。
それだけは、確かだった。




