第54話:春の嵐の到来(新堂亜紀)
――木曜日の朝。
GAIALINQフロアの窓際はこの夕方向け、緊張感がピークに達していた。
直也くんはグランドハイアット東京で18時に劉美琳と接触する。
だからこそ、その前に、私は直也くんに「GAIALINQ ARC改修案概要」を見せたかった。
深夜まで続いたブレストの熱気は、まだ空気の端々に残っている。
昨夜、侑里香がまとめ上げた「GAIALINQ ARC改修案概要」のドキュメント。
それを直也くんを含めたコアメンバー4人で確認する事にしたのだ。
「……ここまでまとめたの、侑里香なのか」
直也くんはページをスクロールしながら、わずかに目を細めた。
「ええ。新人メンバー6人の意見を束ねて、侑里香が構造化してくれたの。」
私がそう答えると、彼はゆっくりと頷き、
資料の冒頭に書かれた一文を指先でなぞった。
> Energy beyond borders.
> Trust beyond nations.
> Heart beyond AI.
「……この言葉は、すごくいいと思うよ」
低い声で、彼がそう言った。
「理念が先に立っている。
技術の話をしていても、ちゃんと “人” に戻ってくる。
オレが考えていたGAIALINQのあるべき姿そのものだと思う」
玲奈がほっと息をつき、麻里も僅かに口元を緩めた。
この数週間、張り詰め続けていた空気が、やっと少しだけ緩んだ瞬間だった。
「――やっぱり、あの子たち、すごいわね」
麻里が腕を組みながら言った。
「発想が素直で、しかも筋が通ってる。
あたしたちがともすると忘れがちな “勢い” を持っている」
玲奈が静かに頷く。
「私たちはどうしても、GAIALINQ形成の経緯を知っているから、その固定観念にとらわれやすい。
でも “次の世代” は、純粋にこれからどうあるべきかを考えて、意見を出してくれる。
それによってGAIALINQは自律的に進化をはじめたの」
私も頷いた。
このプロジェクトがもう “直也くん一人のものではない” と実感したのは、この瞬間だった。
夕方に控えている一大事を前にして、だからこそ余計に「自分一人で何でも背負わないで」と私は直也くんに伝えたかったのだ。
それが今明確に伝えられた。
直也くんに伝わったと思った。
――そんな穏やかな朝になった。
少なくとも、“その声” が聞こえるまでは。
※※※
フロアの奥の自動ドアが開く音がした。
次いで、低く落ち着いた常務の声。
「――少し時間をもらえるかな」
全員の視線が同時にそちらを向く。
常務の隣に、もう一人、見慣れない女性が立っていた。
淡いベージュのジャケット。
白のブラウスに、スリット入りのタイトスカート。
そして、磨き上げられた黒いヒール。
完璧に作られた髪。唇には艶。
まるで舞台に上がるモデルのような気迫。
「――紹介しよう。
警察庁官房から、GAIALINQプロジェクトに無期限で出向してもらうことになった」
常務が一歩引き、彼女を前に出した。
「篠原瑠衣さんだ」
その名前を聞いた瞬間、私の隣で麻里の動きが止まった。
顔が、明らかに強張っている。
「……警察官?」
玲奈が小声でつぶやく。
麻里が眉をひそめた。
「ちょっと、待って――その名前、どこかで……」
その時だった。
「――えっ……! センパイ!?」
弾けるような高い声。
その “センパイ” という呼び方で、フロアの空気が完全に固まった。
「きゃぁ〜〜っ♡ センパイっ、ここにいたんですねぇ!」
彼女――篠原瑠衣は、まるで朝ドラのヒロインみたいなテンションで駆け寄ってきた。
その勢いのまま、直也くんの目の前でぴたりと止まり、両手を胸の前で組む。
「ルイですっ♡
東都大学のカワイイ後輩ですよ〜。
覚えてますよね〜?」
直也くんは数秒、言葉を失ったまま彼女を見つめたあと、
例の “あの苦笑” を浮かべた。
「……覚えているよ、瑠衣」
その一言で、瑠衣の顔がぱぁっと輝いた。
「やっぱり!
ルイのこと、まだ覚えててくれてたんですね〜♡♡」
……私の隣で、麻里のペンが折れた音がした。
玲奈が小声で「……これ、夢じゃないよね」と呟く。
侑里香は目を白黒させながら「ひ、人間って本当にこんなにテンション高く生きられるんですね……」と現実を受け入れられない様子になった。
常務は咳払いして言葉を継いだ。
「――篠原さんには、GAIALINQ COOである一ノ瀬くんの身辺警護とGAIALINQの情報管制の任務を担当してもらうことになった。
警察庁が本気で一ノ瀬くんを、そしてこのプロジェクトを守るという意思表示だと理解してくれ」
「はぁい♡ センパイのこと、命に代えてもお守りしますっ♡」
麻里:「……命、代えなくていいから」
玲奈:「いや、むしろ代えてもらっても……」
私:「二人とも、声に出てる」
瑠衣はそんな殺気に全く気づかず、軽やかに続けた。
「それにしてもセンパイ、すっかり有名人じゃないですか〜。
GAIALINQのCOOになってたって雑誌で見て、ルイびっくりしていました〜。
――でも、流石だなって♡。
大学生の頃から何でも出来る人だったけど、まさかこんな立派になられた……あ!そんなセンパイと別れた麻里先輩、お久しぶりです〜♡」
「……ええ。久しぶりね」
「ルイ、覚えていますよ〜♡
麻里先輩、大学3年生の時に、ミス東都出場辞退されたんですよね?
ルイがエントリーしていたので、逃げたのかな?
――ふふっ、お気の毒様でしたぁ〜♡
だから余裕のダントツ1位でミス東都に選ばれたのがルイだったんですね〜。
麻里先輩が残っていても、結果は同じだったでしょうけれど!」
麻里:「…………っろす」
玲奈:「……麻里、全身から何か黒いオーラ出てる」
私:「ちょっと落ち着いて。ここ職場だから!」
瑠衣はそんな三人の冷気を意にも介さず、
くるっとターンして直也くんの方を向いた。
「センパイ、ルイ、がんばりますね♡
ルイ、ずっとセンパイのこと守りたかったんです。
あの頃は、本当に何もできなかったけど――
今度こそ、センパイを、この世界の “邪さ” から守れる女になります!」
その言葉は一見、軽い。
でも、彼女の瞳の奥には本物の強さがあった。
それを見て、直也くんが少しだけ目を細める。
「……そうか。
――ありがとう、瑠衣」
その一言に、瑠衣の頬が一瞬で紅潮した。
「きゃぁ……センパイ……♡」
麻里:「――ちょっと本気で殺傷したい」
玲奈:「……麻里。私、何でも協力するよ」
私:「ダメ。暴力禁止!」
「じゃあ、ルイ、今日からこちらでお世話になりますっ♡
みなさん、よろしくお願いします〜っ!」
その笑顔がフロアを満たした瞬間、
張りつめていた空気が一気にゆるみ、
誰もが気づかないうちに、少しだけ笑っていた。
――そう。
この朝、私たちは理解した。
世界を脅かすのは国家でもAIでもない。
――女である。
そしてその中でも、最凶の一人が、今ここに現れた。
春の嵐、篠原瑠衣。
彼女の登場によって、GAIALINQは再び息を吹き返した。




