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第51話:再び立ち上がる心(宮本玲奈)

 週末、結局自室に戻っても眠れなかった。

 夜の静けさが、かえって胸を締めつけた。

 頭の中では、あの夜の直也の声が、何度も再生されていた。


 ――「これは、警察庁も関わっている。

 その状況の中で “やり取りを行うこと自体” に意味があるんだよ」


 あの落ち着いた声。

 どんな時も冷静で、決して感情的にならない人。

 だからこそ怖かった。

 “本当に危ない領域に足を踏み入れている” と分かっていながら、平然と説明できる人。


 私は、ノートPCを開き検索した。

 総合商社マンが海外で遭遇した事件――。

 誘拐。

 襲撃。

 テロ。

 大使館籠城事件。

 政変。

 どれも、ニュースで聞くだけの遠い出来事だったものが、今、急に眼前の “現実” として迫ってくる。


 海外赴任中の先輩が、現地スタッフを目の前で失った話を聞いた事もある。

 交渉先のホテルで銃撃戦に巻き込まれた同僚もいる。

 そういう「現場」は確かに総合商社の仕事において存在する。


 戦前は外交官、海軍の士官、そして総合商社マンが日本という国を代表してきた。

 日露戦争時に、バルチック艦隊がシンガポール沖を通過するのを、現地駐在の五井物産マンが目撃したというエピソードは有名だ。

 日本という国を背負って交渉し、世界で戦い、大きなビジネスを動かす立場なのだ。

 その意味では、五井物産マンはビジネスマンである以上に、皆 “半ば公人” なのだ。


 ――でも。

 直也がなぜいきなりその危険な最前線に立たねばならないの?

 直也は、世界を少しでも良くするために戦っている人だ。

 それなのに、そんな危険な相手と接触する必要があるの?


 GAIALINQは、確かに日米の国家戦略プロジェクト。

 けれどそれはエコ電力制御のAI層の覇権をめぐる理知的な戦いのはず。

 ――銃を持つような、人の命を奪ったり奪われたりするような仕事じゃない。

 なのに、彼が会おうとしている相手は国家安全部のエージェントかもしれない。

 “工作員” なんて言葉を、間近な領域で聞く日が来るなんて……。


 頭では理解できても、心が拒絶した。

 そんな危険を、なぜ直也が引き受けなきゃいけないの。

 なぜ、私の直也が……。


 私はソファに沈み、両手で顔を覆った。

 目を閉じても、胸のざわめきが止まらない。

 怖い。

 怖くて、どうしようもない。

 私の心が壊れてしまいそうになっていた。


※※※


 ――月曜日、常務の言葉を聞いた時、

 私はようやく少しだけ呼吸ができるような気持ちになった。


 「一ノ瀬にもし万が一にでも何かあれば、それは “日本という国を本気にさせる” というメッセージを出す――

 それが、あいつを守ることになるんだ」


 その一言が、壊れそうになっていた私の心に灯をともした。


 そうか。

 “守られる” というのは、こういうことなんだ。

 ただ警護されるという意味じゃない。

 国として、一ノ瀬直也という存在を明確に位置づけ、「絶対にこの人間には一切手を出す事を許さない」と世界に示す。


 それは、外交でも、経済でも、最も確実な “防御” だ。


 もしも直也がこの先、海外に出張することがあったとしても――

 「日本という国家が守っている人間」だと相手に予め知らしめていることで、

 むしろ軽々しく接触できなくなる。

 そういう立場を今回ハッキリと “見せる” ことが、

 むしろ今後彼を守る最大の防御線になる。


 私は、初めて少しだけ安心した。

 怖い気持ちは消えないけれど、

 それでも今は “国家戦略の中にいる” のだと思える。


 直也は、国家や企業の枠を超えた存在になっている。

 GAIALINQは、もはや五井物産だけのプロジェクトではなく、

 エネルギーと情報の未来を司る“世界秩序”そのものになっていくのだ。


 彼がその中核にいる限り、

 その命が軽んじられることは、もうない。

 ――そう信じたい。


 窓の外では、春の風が街路樹を揺らしていた。

 画面に映る「今週の予定」は、もうマスキングされている。

 でも、不思議と焦りはなかった。


 彼がどこにいても、

 ちゃんと“守られている”と分かっているから。


 私は静かにノートPCを閉じ、

 深く息を吸い込んだ。


 ――そして、火曜日の午後。

 私は、再び亜紀さんと麻里に声をかけた。

「今週の “接触” の件、どこで待つかを決めないと」

 その言葉に、二人はすぐに察した。

 

 直也がどんなに「来るな」と言っても、

 何もしないで、ただオフィスでモニターを眺めているだけでは、

 息の仕方すら分からなくなりそうだ。


「……やっぱり、あのホテルのラウンジは避けたほうがいいわね」

 麻里が静かに言った。

「同じ建物の中はまずい。目立つ。外の誰かに尾行される可能性もある」

 亜紀が頷く。

「でも、あまり離れすぎても意味がない。

 すぐに動ける範囲じゃないと」


 私はノートPCを開き、地図アプリを拡大した。

 グランドハイアット東京を中心に、半径五百メートル圏内。

「……ここね」

 私が指先で示した場所に、二人の視線が重なった。


 ケンジ エステイト ワイナリー。

 六本木ヒルズの隣、外資系企業の重役たちが好んで使う、

 落ち着いた個室ダイニング。

 地下に広がるワインセラーを改装したプライベートルームがあり、

 遮音も完璧だ。


「ここなら、向こうから見ても “待っている” とは思われない」

 麻里が即座に理解する。

「ビジネスディナーの予約として自然に見える。

 私が日本法人代表の方のアカウントで押さえておくわ」

「ありがとう」

 私たちは短く目を合わせ、頷き合った。


 侑里香と莉子、そして保奈美ちゃんにもこの場所を連絡しておいた。

 みんなでここで直也を待つのだ。


 ―― “ただ待つ” ための場所を決める。

 それだけの行為なのに、胸の奥がじんと熱くなった。

 心配とか恐怖とか、そういう感情を越えて、

 ただ「支える」という行為に集中できる気がした。


※※※


 そして、その夜。

 GAIALINQフロアの会議室。

 私たちは再び顔を合わせていた。


 テーマは――GAIALINQ ARCを今後どう展開するか。


 こんな状況だからこそ、立ち止まる訳にはいかない。

 麻里が言った。

「“動かす” ことが、彼を支える最良の方法よ。

 結局攻撃は最大の防御」


 その言葉で、場の空気が引き締まる。

 私も頷いた。

「ええ。

 だからこそ、今週はブレストをやりましょう。

 内部の思考が硬直している時は、外から新しい風を入れた方がいい」


 亜紀がすぐに反応した。

「つまり――新人を入れるのね?」

「そう。

 むしろ固定観念のない人たちのほうが、GAIALINQの “次の進化” を見つけられる可能性があるわ」


 こうして、翌日の午後に侑里香を含めた新人7人が参加する拡大会議を開くことを決めた。

 それぞれ異なる専門領域を持つ新人を招く。

 侑里香が嬉しそうに頷いた。

「同期の皆、きっと燃えますよ。

 “COOが最重視している案件のブレスト” なんて聞いたら!」


 その笑顔を見て、ふっと空気が明るくなった。

 そうだ、私たちは沈みこんでいる場合じゃない。

 GAIALINQは、生き物のように絶えず動き、進化しなければならない。

 その中心にいる直也を守るためには、このプロジェクトを潰そうという意図そのものを断念させる程に、プロジェクト自体が強力に推進されている状況を作るのが一番だ。


 窓の外の夜景が、反射で会議室のガラスに映り込んでいた。

 東京の灯が、まるで無数の回路のように瞬いている。

 世界中を結ぶネットワークの中に、

 GAIALINQの未来が脈打っている気がした。


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