第50話:心が塞がれる週末(新堂亜紀)
――あのまま解散して帰宅なんて、到底できなかった。
保奈美ちゃんのあの笑顔を見たあと、
そのまま家に帰って寝られる人なんて、いるわけがない。
みんな無理をしていた。
特に玲奈。
あのまま一人にしたら、絶対に壊れてしまうと思った。
だから私は、その場で声をかけた。
「ねぇ、もうこのまま帰るのやめよう。
カラオケ行かない?」
麻里が一瞬私の顔を見て、すぐに頷いた。
「いいわね。歌って飲んで、強制的にデトックスしましょう」
侑里香も慌ててバッグを抱えて、
「わ、私も行きます!」
とついてきた。
それで、私たち四人はそのままタクシーに乗って、
大崎のカラオケBOXに行った。
金曜の夜、眠らない街。
部屋に入って最初の一杯を飲む際、誰も言葉が出なかった。
代わりに玲奈が、黙ってリモコンを取って曲を入れた。
それが――JUJUの「ナツノハナ」だった。
彼女がマイクを握る。
震えた声で歌い出す。
サビに差し掛かる頃、もう泣いていた。
私はその隣で、ただ肩に手を置いた。
麻里は黙ってグラスを傾け、
侑里香は目を潤ませながらタンバリンを叩いてくれた。
気づけば夜が明けていた。
土曜の10時。
気がついたら、テーブルの上には空いたグラスが並んでいた。
玲奈が、ようやく笑った。
「ねぇ……私たち、何時間歌ってたんだろ」
その笑顔は少し泣きはらした跡があったけれど、
ようやく本当に笑えた気がした。
麻里が言った。
「ま、今日くらいは徹夜しても誰も怒らないでしょ」
その言葉に、全員が笑った。
久しぶりに、ちゃんと笑えた。
やっと、ほんの少しだけ。
※※※
――月曜日。
GAIALINQフロア。
朝一番で侑里香が、息を切らせて私と玲奈の席に飛び込んできた。
「亜紀さん、玲奈さん……大変です!」
「どうしたの?」
彼女が自分のタブレットを差し出す。
そこにはGAIALINQのCOOスケジュール画面。
表示権限の欄が、マスキングされた状態になっていた。
「見れません。
直也さんの予定の閲覧権限が、皆さんと同じ一般権限にされています……」
一瞬、息が止まった。
「……やられたわね」
玲奈が低い声でつぶやいた。
画面を見ながら、私は小さくため息をついた。
おそらく、週末のうちに直也くんがシステム部門と秘書室を動かしたんだ。
ほんの数分の差でも、彼ならもう動いている。
――ほんと、こういう時の対処は “神速” だ。
そんなことを考えていた時、背後から声がした。
「おはよう。君たち、ちょうどよかった」
常務がGAIALINQフロアに入ってきた。
スーツ姿のまま、いつもより真剣な顔をしている。
「一ノ瀬COOが、正式に鏡くんをGAIALINQプロジェクトに迎えると言っている。
今日付で人事発令することになったから、よろしく頼むよ」
「えっ……!」
侑里香が目を見開く。
嬉しそうな顔――だけど、その後にすぐ不安の色が浮かんだ。
今、彼女が誰よりも知りたいのは “直也さんの動き” 。
そのスケジュールを見られないのは、致命的だ。
「……常務、ご相談があります」
覚悟を決めて、私は立ち上がった。
少し驚いたように、常務が眉を上げる。
「相談?」
「はい。少しお時間をいただけませんか」
そのまま、会議室へ。
入ったのは、私と玲奈、麻里、侑里香、そして常務。
ドアを閉めて、深呼吸をひとつ。
私は、口を開こうとした、その時に――。
「一ノ瀬COOから大体は聞いているよ。
“劉美琳” という中国商務部関係者との接触について、その予定を秘書室権限で鏡くんに閲覧されていて、コアメンバーに共有されていた為にやむを得ず、概要を話す事になったという事はね」
常務に先んじられてしまった。
「君たちが私のところに来て、この接触を阻止しようとする可能性があるから、逆に私からも説得して欲しいと言われたんだよ。
まぁ私が何言っても君たちは聞き入れてくれるか分からないがね……」
常務の声は落ち着いていた。
その落ち着きが、逆に私たちの緊張を際立たせた。
「会社としては、絶対に危険なことを一ノ瀬COOにさせるつもりはない。
警察側でも今回の接触に関しては、万全の体制を組むと約束してもらっている。
現場では、一ノ瀬くんの旧友が指揮する予定と聞いているよ」
――角田という人物のことだ。
やっぱり、そう動いているんだ……。
麻里が小さく息をついたのが分かった。
常務は椅子に深く腰を下ろし、ゆっくりと腕を組んだ。
「海外で向こうから接触してきたという事は、今後の事を考えると――。
むしろ、一ノ瀬直也という人間を “日本国としてガードしている対象” だと明確に示す方が、長い目で見れば一ノ瀬くん自身の為にもいい。安全策になる。」
その言葉に、玲奈が眉を寄せた。
「……どういう意味ですか?」
常務は淡々と続けた。
声の調子は柔らかいが、一語一語に重みがあった。
「正直に言えば、警察庁の一部。
公安側は今回のサポートに反対する意見もあったらしい。
彼らの論理で言えば、“工作員の可能性がある人物” は、泳がせるのが正解だからね。
何があってもそのまま放置し、継続して監視する――それが公安の論理だ。」
私たちは息をのんだ。
あまりにも現実的すぎる、そして残酷すぎる言葉だった。
玲奈が唇を噛んだ。
常務は少しだけ目を細めて、言葉を続けた。
「でも――社長が断固として、一ノ瀬くんをガードする事を警察庁の上層部に要求した。
“一ノ瀬直也は日本を代表するビジネスマンであり、GAIALINQは今や日米の国策プロジェクトである、その中核に在るのが一ノ瀬直也なのだ” とね。
だからこそ、今回の方針に落ち着いた。
これはその場しのぎではなく、今後を見据えた上での “ベストな判断” だと、私も思っているよ。」
玲奈が小さく目を伏せる。
侑里香は、言葉を失ったまま画面のスケジュール欄を見つめていた。
みんなの中に、ようやく “納得” の輪郭が見えてきた気がした。
常務は少しだけ笑って、こう言った。
「一ノ瀬くんにもし万が一にでも何かあれば、それは “日本という国を本気にさせることになるぞ” というメッセージを明確に示しておく――それが、あいつを守ることにも繋がるんだ」
私は、その一言で息を飲んだ。
「第一、米国大統領からチャレンジコインと、シークレットサービスへの緊急連絡コードを渡された男に、危ない真似をさせる訳がないだろう。
それこそ米国だって黙っていない。
私が言うべきではないかも知れないが、未来の五井物産の社長候補にもなっている男を、こんな事で失うなど言語道断だろう。
だから――むしろ、今ここで一旦はっきりとしたメッセージを出した方がいいんだ」
その声には、もう迷いがなかった。
静かだけれど、絶対的な自信。
それは “企業の中の人間” の言葉というより、
“国と一体となって動いている人間” の響きだった。
会議室の中に、静かな沈黙が落ちた。
誰もが深く息を吐き出す音が、ほぼ同時に重なった。
麻里が最初に口を開いた。
「……つまり、私たちができるのは “信じて待つ” というわけですね」
常務はうなずいた。
「そうだ。信じて、支えてやって欲しい。
あの男は、いざという時には誰よりも冷静で、だけれど誰よりも優しすぎる。
そして誰よりも責任を果たそうとしてしまう。
それも、いつも必ずあいつ自身の自己犠牲によってだ。
だからこそ、周りが冷静でなければならない。
――それが、GAIALINQプロジェクトのチームメンバーの役割だと思うよ」
その言葉に、私はようやく肩の力を抜いた。
心の奥で、何かがふっとほどける音がした。
玲奈は涙を流していたが、ようやく静かにうなずいていた。
麻里は手帳を閉じて、まっすぐ常務を見た。
「……分かりました。
私たちは、私たちの場所でやるべきことをきちんとやりたいと思います。
――直也を、絶対に支えます」
常務は短く頷いて立ち上がった。
その姿を見送りながら、私は深く息を吸い込んだ。
玲奈が静かに言った。
「……じゃあ、今度こそ “本気で支える” 番ね」
私は小さく笑って頷いた。
「ええ。私たちの手で、ちゃんと守りましょう」
会議室を出ると、春の陽射しが差し込んでいた。
遠くの窓の外――
東京の空は、眩しいほど青かった。




