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第48話:心が崩れそうな夜(一ノ瀬保奈美)

 ――動揺が止まらない。


 直也さんが、そんな危険なことをしようとしている。

 それを聞いた瞬間、頭が真っ白になった。

 けれど、それ以上に苦しかったのは――玲奈さんの姿だった。


 あの、どんな場面でも冷静で。

 感情を表に出さず、いつも淡々としている玲奈さんが。

 あんなふうに、泣いて、声を上げて。

 まるで壊れてしまったようだった。


「いやだ……いやだよ。絶対、行かせない!」

「そんな危険なこと、直也にさせられないよ……!」

「そんなの、もう総合商社マンの仕事じゃないよ……!」

「そんな工作員みたいな人と関わったら……いつか直也が死んじゃうよ……!」


 直也さんが死んじゃう?

 そんなに危険な事を進めようとしているの?

 玲奈さんのそんな訴えを聞いていたら、私も泣き出しそうになってしまった。

 でも、泣いてはいけない――そう思った。


 私まで泣いたら、この空気がもっと苦しくなる。

 みんな、誰もが心配している。

 そして誰もが必死になって「大丈夫だ」と自分に言い聞かせている。

 そこでまた私が泣くなんて許されない。

 だから、ただ笑って、帰宅するみんなを見送った。


「気をつけて帰ってくださいね」

 できるだけ明るい声で言ったつもりだった。

 でも、喉の奥が震えていて。

 きっと上手く笑えていなかったかも知れない。


 玄関のドアが閉まり、足音が遠ざかる。

 静寂が戻った部屋の中で、私は深呼吸をした。

 後片付けをしなければならない。


 お皿を洗い、テーブルを拭いた。

 鍋を片づけて、冷蔵庫の中を整える。

 そうやって、手を動かしていないと心が崩れそうだった。


 直也さんも、無言で手伝ってくれた。

 お皿を拭きながら、時々、私の方を見る。

 何か言いたそうにしていたけれど、何も言わなかった。


 やがて片づけが終わると、私はお風呂に入った。

 湯気の中で、涙がにじんだ。

 でも、泣く理由を言葉にできなかった。

 ただ、胸の中が熱くて、重かった。


 お風呂から上がって、髪を乾かしたあと、私はリビングに布団を引き出した。


 テレビも消えた静かな部屋。

 私が敷いた布団を見て、直也さんが少し驚いた顔をした。


「え? どうして?」


 私は黙って首を左右に振った。

 何も言葉にしたくなかった。

 怒っているとか、悲しいとか、そんな簡単な言葉じゃない。

 ただ、胸の奥にあるものを、どう表していいか分からなかった。


「怒ってるの?」


 その声は少し困ったようで、少しだけ優しかった。

 私は何も答えず、また小さく首を振った。

 そして必死につくり笑いをしようとした。

 笑顔を直也さんに向けようとして――。

 上手くいかなった。

 笑顔のままで涙が出てきてしまった。


「保奈美……」


 本当は――怒っていた。

 自分に何も知らせずに、玲奈さんがあんなに思いつめるようなことをしていたこと。


 私は何も知らなかった。

 直也さんに事前に何も知らせてもらえなかった。

 それが、悲しかった。


「……分かったよ」


 直也さんが、少しだけ笑って言った。

 そのまま、私の隣に布団を敷いた。


 私が同じ布団に入っても、直也さんは何も叱らなかった。

 むしろ、そっと私を抱き寄せてくれた。


「大丈夫だ。別に何があるという訳じゃない。

 絶対に安全に進めるために、警察庁に行った友人にもわざわざ連絡して、今日も打ち合わせをしていたんだ。警察側でもきちんとガードしてくれる。

 だから、普段と何も変わらないよ」


 その声は穏やかで、

 けれどどこか遠くを見つめているようだった。


 胸の奥で何かが崩れそうになった。

 でも、もう泣かないと決めていた。

 だから私は、黙って直也さんの胸に顔を寄せた。


 心臓の音が聞こえる。

 一定のリズム。

 その音を聞いているうちに、少しだけ安心してきた。


(……大丈夫。直也さんは、きっと大丈夫)


 そう自分に言い聞かせながら、私は静かに目を閉じた。

 そのまま、いつの間にか眠っていた。


 最後に感じたのは、

 直也さんの手が、私の頭をゆっくり、あやすように撫でてくれてた感覚――。


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