第47話:玲奈の涙(一ノ瀬直也)
部屋の空気は、まだ重かった。
誰も動かない。
テーブルの上には、冷めかけた鍋と、手を止めたままのグラス。
時計の秒針の音が、乾いた金属音のように響いていた。
全員の視線が、オレに向いている。
麻里は静かに座ったまま、他の5人を見守っている。
玲奈は唇を噛み、亜紀は拳を握ったままうつむいていた。
保奈美は不安そうにオレを見つめている。
そのままの沈黙が、何秒続いたろう。
オレはゆっくりと息を吐き、声のトーンを少し落として言った。
「……本当に、オレは大丈夫だから」
その一言で、わずかに空気が緩む。
だが、心配の色は誰の顔にも消えない。
だから、オレは続けた。
「五菱商事の洋上風力発電の件は、本来なら撤退方針が決定されているはずだ。
それが政界の中で、おもちゃみたいに弄ばれて、対外公表できないままになっている。
その過程で、何らかの情報を――おそらく日本の政界が絡んだ不都合な何かを、中国側は入手したと、そう見るべきだろうね。
そして、それを餌にして、オレに接近してきているんだろう」
重い空気のまま、誰も口を挟まない。
グラスの中のワインが、赤く光っている。
「中国が狙っているのは、発電そのものの覇権じゃない。
発電に関する “エネルギー制御層” の覇権だ。
風力でも太陽光でも地熱でも構わない。
どんな電源でも、電力を制御・分配・最適化するAI層が最も重要となる――つまり、その “エネルギー制御OS” を握ることが、彼らの最終目的だ」
玲奈がゆっくり顔を上げた。
言葉にはならないが、目が問いかけている。
「GAIALINQ ARCは、その制御の基準自体を “国家の外側” に置こうとしている。
もちろん現実的な折り合いのつけ方としての日米の戦略的利益はきちんと確保するにしても、オレとしては、世界人類の最大多数の幸福のために、世界の未来を少しでも良くする為に、GAIALINQ ARCを位置づけたいと考えているのは知っての通りだ。
しかし、それが彼らには目障りなんだろう。
そんな事をされれば、中国が中核となる “エネルギー制御OS” による覇権が構築できないからだ。
だから、GAIALINQをダイレクトに排除するよりも、“関与” という形で巻き込もうとしてくる。
……つまり、利用して、都合よく管理下に置きたいというのが彼らの本音だろう」
麻里がグラスを置く音がした。
静かな音だったが、その中に確かな理解があった。
「中国にとって、五菱商事の洋上風力発電は関与するだけの価値がない。
そもそも中国が大陸国家だから洋上風力発電は戦略的な位置づけは補完的に過ぎない。
潰しても構わない案件だ。
むしろ、彼らからすると、自分たちが “関与” したいと考えているGAIALINQがそうした停滞した構造に巻き込まれる方が、かえって都合が悪い。
そこで、洋上風力発電の利権に関連する政治家の、おそらくは “致命的な情報” をオレに “提供” しても構わないと考えたのだとオレは見ている。
そのうえで、オレに恩を売り、GAIALINQ ARCを、彼らの戦略との対立軸にさせないために、今回の恩に対する “対価” を要求してくる、まぁそういう流れだろうね」
話を終えると、短い沈黙が落ちた。
亜紀が静かに問いかけた。
「……そこまで分かってるなら、どうしてそんな危険な相手と会いに行くの?」
オレは短く息を吐いた。
「これは、警察も既に関わっている。
その状況の中で――こうした “やり取りを行うこと自体” に意味がある」
それだけ言って、グラスを置いた。
誰も何も言わなかった。
だが、もうオレの中では答えは出ていた。
警戒も、覚悟も、もう済んでいる。
(……大丈夫だ。心配はいらない)
そう思いながらも、彼女たちの顔を見れば見るほど、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
テーブルの向こうで、玲奈の肩が小さく震えた。
誰も動けないまま、その震えが次第に大きくなる。
気づいた時には、玲奈の頬を涙が伝っていた。
「……いやだ」
かすれた声だった。
最初は誰も、何を言ったのか分からなかった。
次の瞬間、彼女は両手で顔を覆いながら、
押し殺すように、しかしはっきりと叫んだ。
「いやだ……いやだよ。絶対、行かせない!」
声が震えて、部屋の空気を震わせる。
あまりにも唐突だった。
オレは驚いて、思わず立ち上がっていた。
「玲奈……」
宥めようと近づくと、玲奈は椅子を蹴るように立ち上がり、
そのままオレの胸に飛び込んできた。
強く、泣きじゃくりながら。
「そんな危険なこと、直也にさせられないよ……!」
「そんなの、もう総合商社マンの仕事じゃないよ……!」
「そんな工作員みたいな人と関わったら……いつか直也が死んじゃうよ……!」
言葉が涙に溶けて、何度も同じ言葉を繰り返す。
震える肩を抱きしめながら、オレは何も言えなかった。
その横で、亜紀が静かに息をついた。
「……直也くんが、“これでオレ、いついなくなっても大丈夫そうだなぁ……” なんて言ったから……ここ数日、玲奈はあまり寝られないみたいなのよ」
――あの冗談のつもりで言った一言が、こんなにも彼女の心に残っていたのか。
彼女たちには “別れの予告” に聞こえてしまっていたのだ……。
オレはあまりにも無思慮だった……。
玲奈の嗚咽が胸の奥に響く。
この声を聞きながら、黙って抱きとめることしかできなかった。
説明よりも、理屈よりも、まずこの涙を受け止める方が先だと思った。
「……大丈夫だよ、玲奈」
玲奈の頭を撫でながら、やっとの思いで、その言葉が出た。
玲奈が顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、真っすぐにオレを見ていた。
「この件は、オレの中ではもう着地点は見えてきている。
ただ、そこに行き着くためには――
劉美琳と実際に一度会って話すこと自体が、どうしても必要なんだ。
だから……仕事を、きちんとさせて欲しい」
玲奈は唇を噛みしめたまま、何度も首を横に振っていた。
けれど、しばらくすると、静かに泣き止んだ。
テーブルの上には、ティッシュの白い紙片と、冷めたワインのグラス。
保奈美が小さく息を飲み、莉子が視線を逸らす。
部屋の中の誰もが、何かを言いたくて、けれど言葉を選んでいた。
やがて、玲奈が小さくつぶやいた。
「……分かった。
そこまで言うなら――当日は近くの別のお店で待つよ。
それならいいでしょ?」
その声はまだ涙の余韻を残していたが、意志は強かった。
オレは少しだけため息をついて、頷いた。
「……分かった」
それが、今のところの “和解点” だった。
けれど、胸の奥では小さく痛みが残っていた。
それは、彼女の涙のせいか、
それとも、自分が選んだ道の重さのせいか――
まだ分からなかった。




