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第46話:スケジュールの真相(鏡侑里香)

 食卓に漂うチゲ鍋の香りが、少し落ち着いた頃だった。


 空になった器、半分残ったワイン。

 皆が一息ついたタイミングで――亜紀さんが、静かに口を開いた。


「……ねぇ、直也くん」

 その声には、いつもの穏やかさがなかった。

「もうズバリ聞くけれど、来週の直也くんの予定にある “L.M” って誰なの?

 隠さないで教えて」


 場の空気が、一瞬で変わった。

 直也さんの手が止まる。

 グラスを置く小さな音が、やけに大きく響いた。


「……L.M?」

 直也さんは、眉をわずかに動かしてから、すぐに気づいたように顔を上げた。

 そして――私のほうを見た。


「……秘書課の権限で人のスケジュールを覗き見するのは、あまり良い趣味とは言えないな」


「……す、すみません……」

 思わず背筋が固まる。

 まさか、そこまで把握されていたなんて。

 息を飲む音が、自分の喉から漏れた。


 しかし、沈黙は長く続かなかった。

 玲奈さんがグラスをテーブルに置き、まっすぐに直也さんを見つめた。


「誤魔化さないで。

 直也。L.Mって一体誰で、なぜ会うのか教えて」


 直也さんは小さくため息を吐いた。

 少しだけ目を閉じて、それから穏やかな声で話し始めた。


「……L.Mは、“劉美琳リウ・メイリン” 。

 中国 商務部のAI産業発展局に所属するという人物だ」


 その名が出た瞬間、リビングの空気が凍りついた。

 保奈美ちゃんの手が止まり、

 莉子さんの目が丸くなり、

 麻里さんが眉をわずかに上げる。


「彼女とは――もともと、1月のダボス会議の時に会った。

 オレの講演の後、土産物を買いに行った先で、向こうから声をかけてきたんだ。

 “あなたの構想には非常に興味があります” とね」


「……ダボス会議の?」

 玲奈さんの声がわずかに震えた。


「うん。

 その時は名刺を受け取っただけで終わった。

 ところが、先日メールが届いた。

 ―― “あなたの抱えているお仕事の問題解消にお役立ちできるかもしれません。

 お会いする時間を作ってください” と」


 静まり返る室内。

 エアコンの送風音だけが、やけに耳についた。


「それで……?」

 麻里さんが、慎重に促す。


「来週、グランドハイアット東京のワインバーで会う約束をした。

 劉美琳は商務部の看板を掲げているが、実際には――

 国家安全部のエージェントである可能性も否定できないとオレは考えている」


 その言葉に、全員が息を呑んだ。

 誰もが言葉を失い、互いの顔を見合わせる。


「直也くん……もう絶対ダメ。

 もう絶対に行かせない。

 そんな相手と会うなんて、とんでもない」

 亜紀さんは顔色を失って、震え声のまま叫ぶように言った。


「そうよ直也。

 どうしても行くというなら――私も行くから」

 玲奈さんも続く。


 その時、麻里さんが静かにグラスを置いた。

 小さな音が、再び空気を切り裂いた。


「……それで全て繋がったわ」

 麻里さんの声は低く、しかし確信に満ちていた。

「だから角田くんと会っていたのね」


 直也さんが、ゆっくり頷いた。

「そうだ。

 彼がこの件のサポートをしてくれる事になる。

 もし劉美琳が国家安全部関係の人間なら、接触そのものが “インテリジェンス工作” の一環である可能性が高い。


 日本の外事警察もバカじゃない。

 警察との事前の了解も無しにオレが彼女と接触でもするようなら、今度はオレが中国側のエージェントであるという誤解を日本の警察当局に与えてしまうリスクもある。

 だから、警察庁にも事前に情報を把握しておいてもらうようにした。」


 その説明に、ようやく全員が息をついた。

 けれど、緊張は完全には解けない。


「……でも、それでも行くつもりなのね?」

 莉子さんが問いかけた。

 直也さんは、わずかに笑った。


「ああ、……行くよ。

 向こうが “仕掛けてくる” なら、逃げても仕方ない。

 ただし――独りで行く事はしない。

 警察が監視チームを付けてくれる手筈になっている。

 そもそもこの件は五井物産の社長にも常務にも、それから本多さんにも共有済みだ。

 会社としての了解も得ている。

 その上で来週オレは劉美琳と会うことにした」


 沈黙。

 鍋の中のスープが小さく泡を立てた。


 私は、その光景を見つめながら愕然とした。

 ――これが、“インテリジェンスの最前線” というものなんだ。


 AI、国際政治、経済、エネルギー。

 すべてが絡み合い、

 一つの小さな「会合」が、世界のバランスに大きく影響する。


(……私はまだ、直也さんの足元には到底及ばない)


 そう感じながら、私は黙ってグラスを握った。

 その手の中で、ワインが赤く揺れていた。


 誰も言葉を発せないまま、しばらく時間が止まっていた。

 チゲ鍋の湯気が静かに揺れて、誰も箸を動かさない。

 そんな中、玲奈さんが口を開いた。


「……だったら、私も行く」

 その声は震えていなかった。

 むしろ、強い意志のこもった、冷たい響きだった。


 そのすぐあとに、亜紀さんが続いた。

「私も。直也くんを一人で行かせるなんて、そんなの絶対にありえない。」


 空気が一瞬、はっきりと動いた。

 テーブルの上のワイングラスが、かすかに震えたように見えた。


 ――そして。


 直也さんが、顔を上げた。

 その目に、一瞬の迷いもなかった。


「――ダメだ。」


 その声は、低く、硬かった。

 聞いたことがないような、冷たい厳しさ帯びていた。

 まるで部屋の空気そのものが、ぴんと張り詰めていくようだった。


「絶対にダメだ。

 そんなことは絶対に許さない。」


 亜紀さんと玲奈さんが同時に動きを止めた。

 二人とも、息を飲んだまま何も言えない。


 直也さんは続けた。

 その声音には、迷いがなかった。


「これは警察庁が正式に関わる事になっている。


 社長からも、警察庁と警視庁上層部に正式な依頼を行って頂いている。


 角田もその命令系統に沿った上で、特にオレと旧知という事もあって、今回サポートしてくれる事になったという経緯がある。


 そういう状況で、俺以外の人間が勝手に関わることは――これはもう一切、認められない」


 言葉の一つ一つが、まるで金属を打ちつけるように重かった。

 優しさを全て削ぎ落とした直也さんを、私は初めて見た。

 でもその厳しさは冷たさではなく、「守ろうとする力」そのものに見えた。


「……これは、オレからの命令だ」


 そう言った瞬間、テーブルの上の空気が変わった。

 誰も動けなかった。

 玲奈さんが唇を噛み、亜紀さんは視線を落とした。


 そして、直也さんは麻里さんの方を向いた。

「麻里。

 ――お前が見ていてくれ。

 亜紀と玲奈が勝手な行動をしないように。

 いいな? 分かったな?」


 反駁を全く許さない圧を持った直也さんの言葉。

 麻里さんは、すぐに短く頷いた。

 静かに、しかし確かな重みをもって。

「……はい。分かりました」


 それだけだった。

 誰もそれ以上、何も言えなかった。

 ただ、部屋の中の時計の秒針だけが、乾いた音を立てていた。


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