第38話:怒りの女子会(宮本玲奈)
――頭では理解している。
けれど、感情が納得してくれなかった。
「そうか。それなら安心だ。
――じゃあこれでオレ、いついなくなっても大丈夫そうだなぁ……」
あの一言が、ずっと耳の奥で反響している。
プロジェクトルームを出たあとも、資料をめくっても、メールを打っても、
その声だけがリピートして止まらない。
(“いついなくなっても大丈夫” ……?)
たぶん本人に悪気はなかった。
むしろ、心配をかけまいと軽口を叩いたのだろう。
でも、そういうことじゃない。
そういうことじゃないのだ。
※※※
夜。
GAIALINQのオフィスを出たあと、私はスマホを取り出して、短くメッセージを送った。
――「飲みに行かない? 亜紀さん、麻里さん、侑里香も」
返信は早かった。
“場所どこにする?”
“どうせ『怒りの女子会』でしょ”
“あたしも行きます。場所、押さえます!”
気づけば30分後、私たちは神田の裏路地にある小さなワインバーにいた。
カウンターの奥でジャズが流れ、テーブルにはグラスが4つ。
「……で、つまり」
亜紀さんがワインを回しながら言った。
「玲奈は、“あの言葉” が気に入らなかったわけね?」
「気に入らないどころじゃないですよ」
私は即答した。
「“いついなくなっても大丈夫”って、あれ、冗談のつもりですか?
直也がいなくなったら、GAIALINQも、私たちも、何が残るっていうんですか」
麻里が苦笑する。
「まぁ……確かに。
あの言葉、聞いた瞬間、私も一瞬呼吸止まったわ」
「だよね」
ワインをひと口。
アルコールが喉を通っていくのに、なぜか胸の奥の熱は冷めない。
「……直也くん、新人の時から、もうずっとそう。
“冗談っぽく言っておけば、みんな心配しないだろう” っていう癖」
亜紀さんがグラスを置いた。
「でも、こっちはちゃんと覚えてるのよ。
“冗談” じゃ済まないことが、たくさんあったから」
「ほんと、それ」
麻里が頷く。
「仕事の話なら、直也は絶対逃げない。
でも、“自分自身” の話になると、平気で軽口を叩く。
……それが一番怖いのよね」
侑里香は黙って聞いていたが、ふとワインを置いて口を開いた。
「でも、直也さんの “いなくなる” って、単に “現場を離れる” とかじゃない気がします」
「どういう意味?」
私。
「なんか……あの人、どこかで “自分の限界” を測ってる感じがします。
まるで、“どこまで走れば自分は壊れるか” をいつも確認してる、みたいな」
その言葉に、誰も何も返さなかった。
沈黙のあと、亜紀さんがため息をつく。
「……まぁ、とにかく、今日くらいは忘れましょう」
麻里が笑ってグラスを掲げた。
「そうね。とりあえず飲みましょう。
理屈も理念も抜きで、ただの女の子に戻る夜にしましょう」
「賛成」
グラスが4つ、静かにぶつかる。
――けれど、話題はどうしても、あの人に戻ってしまう。
「そういえば」
麻里が思い出したように振る。
「環境省の“凍結遥”さん。あの人とこないだ会ったんでしょ?」
「うん」
私はうなずいた。
「……あの女、やばいわよ」
「え、どういう事ですか?」
侑里香が身を乗り出す。
「“直也さんとは2回デートしました” って言ったのよ」
「2回!?」
麻里が叫ぶ。
「で、そのあと、“今度はオーバーナイトでデートしたいなぁ” って!」
「オーバーナイトって、夜中ずっと一緒ってこと!?」
亜紀さんの声が上ずる。
――瞬間、テーブルの空気が爆発した。
「はぁぁぁ!? 何それ!? 官僚ってそこまで図々しいの!?」
「ふざけるな、エロ官僚!」
「もう、絶対一人で会わせない!」
怒号というより、もはやコント。
周囲の客が思わずこちらを見たが、誰も止める気配はない。
「汚職官僚、どうやって潰してやりましょうか」
侑里香が低い声で言い出す。
「ちょ、待って待って」
私が慌てて止める。
「さすがにそこまで行くと、それこそ政治問題よ!」
「でも……その女、絶対直也さんを狙っていますね」
「まぁ、それは全員同意ね」
亜紀さんがため息をついた。
笑いながら、でも心のどこかが痛かった。
怒りとか嫉妬とか、そんな単純な感情じゃない。
――たぶん、怖かったのだ。
あの人が “いなくなる” 世界を、ほんの一瞬でも想像してしまった。
その未来が、こんなにも寒いものだなんて、思いたくもなかった。
グラスの中のワインが、氷に溶けていく。
私はゆっくりとそれを見つめながら、心の奥でつぶやいた。
(……直也。
あなたが本当にいなくなったら、
このチームの誰も、“笑う” ことなんてできなくなるわよ)
その夜は、笑って、怒鳴って、泣きそうになって――
それでも、どこか救われた気がした。
春の夜風が、ほんの少しだけやさしかった。




