第32話:理念の破壊と男女関係(柊遥)
――まさか、またこの二人が揃って来るとは思わなかった。
環境省・地球環境局の応接室。
窓の外では霞が関のビル群が淡く陽に照らされている。
いつも通りの火曜日。
けれど私の胸の鼓動だけが、ほんの少し速かった。
ドアがノックされる。
入ってきたのは一ノ瀬直也――そして、宮本玲奈。
まるで氷と炎が同時に歩いてくるような組み合わせだ。
「お久しぶりです、遥さん」
直也さんの声。
その柔らかい音色だけで、仕事の疲れが溶けていくようだった。
「お忙しいところ突然お時間を頂き、申し訳ありません。
急な相談がありまして」
玲奈さんが続ける。
彼女の声には、相変わらず張りつめた硬さがある。
……まぁ、無理もない。
私が “官僚” としての顔だけで生きていると思っているのだから。
私はファイルを開き、理路整然と話し始めた。
「まず、環境省の公式見解として申し上げます。
洋上風力発電の推進は、カーボンニュートラル政策上、重要な再生可能エネルギー施策の一つです。
しかしながら、GAIALINQのように地熱を基盤とした安定電源型システムと統合することは、制度上も、技術的にも、極めて不適切だと申し上げざるを得ません。」
直也さんが小さく頷く。
玲奈さんは表情を崩さずにメモを取っている。
「理由は三点あります。
一つ、エネルギー特性の非相関。
地熱はベースロード、風力は変動電源。
二つ、環境アセスメントの適用範囲の齟齬。
三つ、政策的優先順位の混在化による行政リスク。
これらを考慮すれば、GAIALINQと洋上風力をマージするのは――」
私は軽く間を置いて、ゆっくりと言葉を区切った。
「―― “理念の破壊” と申し上げざるを得ませんね。」
室内の空気が静まる。
玲奈さんが、わずかに目を細めた。
直也さんは、静かに私の言葉を受け止めていた。
その姿勢だけで、胸が痛いほどに愛しくなる。
しばしの沈黙のあと、私はファイルを閉じ、穏やかに微笑んだ。
「――以上は、まぁ当たり前の議論という奴ですね。」
「……はい?」
玲奈さんが眉をひそめる。
私はわざと柔らかく、少し声のトーンを落とした。
「ここから先は、柊遥個人の意見です♡」
直也さんの目が一瞬だけ揺れる。
玲奈さんのペンが止まった。
――ああ、この緊張感、たまらない。
ほんの少しの遊び心くらい、許してほしい。
だってこの人の前では、私の理性なんてもうとっくに意味を成していないのだから。
「直也さん、まだデート2回しかしてくれないんですよね」
「……え?」
「しかも、そのうち1回はディナーだけだったし」
軽くため息を混ぜながら言うと、玲奈さんが固まった。
「デ、デート……2回?」
「語弊がありますよ、遥さん」
直也さんが慌てて言うが、私は首を傾げるだけ。
「語弊なんてないです。
私は仕事の合間を縫ってお時間を頂いたわけですし♡」
玲奈さんの頬が引きつる。
――この子、怒るとき本当に分かりやすい。
だけど、それすら可愛い。
(ふふっ……所詮は小娘ね。
そんなんで、“私の直也さん”をサポートできるの?)
「この件は私としても全力でサポートします。
GAIALINQの理念は、環境省としても守るべき価値がありますから。
ただ……」
私はゆっくりと笑って、直也さんの目をまっすぐ見た。
「今度は “オーバーナイトのデート” がしたいなぁ♡」
「――っ!」
玲奈さんが椅子からわずかに浮く勢いで立ち上がる。
「オーバーナイトって、どういう意味ですかっ!」
「そのままの意味ですけど?」
「そんなの官僚としてどうなんですか!」
「個人の意見って言いましたよね?」
直也さんが額を押さえた。
「……遥さん、もうそのへんで」
「冗談ですよ。
……半分は、ですけど」
玲奈さんが沈黙する。
室内の空調が、まるで空気を読んだかのように強く吹き出した。
温度がほんの少し上がった気がした。
(――ほんと、地球よりもここの温暖化のほうが深刻かも)
私は心の中で小さく笑いながら、グラスの水を口に含んだ。
氷が溶けていく音だけが、やけに澄んで聞こえた。
※※※
彼らが部屋を出たあと、私は深く息を吐いた。
机の上には、まだ微かに直也さんの残り香が残っている。
それだけで、動悸がまた高まる。
(……あの人を、下劣な政治屋の手に渡すわけにはいかない)
理性と感情の境界線を、もうとっくに越えている。
でも、それでいい。
私の理性も、この恋も、すべてGAIALINQのために。
――そして、あの人のために。




