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第29話:自分の立ち位置(鏡侑里香)

 ――あの名古屋の空気は、いまも胸の奥に残っている。


 夕暮れの光と、風のやわらかさと、みんなの笑い声。

 あの日、私はやっとGAIALINQにおける “居場所” を手に入れたのだと思う。


 明治村の教室で黒板の前に立つ直也さんを見たとき、私は理解してしまった。

 GAIALINQというプロジェクトは、ロジックだけでは動かない。

 優れた理念と、人の想いと、信頼の網でつながっているのだ。

 そして――その中心にいるのが、直也さんの存在だということも。


(……私は、ずっと間違えていたのかもしれない)


 ロジックを突き詰めれば、すべては整うと思っていた。

 最適化すれば、すべての誤差は消えると思っていた。

 でも、GAIALINQの人間関係は “むしろ不合理” の上で動いている。

 直也という人の包容力が、その不合理性をもひとつ残らず抱きしめている。

 それがこの組織の「強さの根源」なのだ。


 だから私は、あの日に自分の立ち位置を変えようと決意した。

 一ノ瀬直也の不合理性を補正するのではなく、

 ――直也という “人” を徹底的に守ること。

 彼の理念を歪めることなく、自分の持つ合理性を、むしろこのプロジェクトが抱えている不合理性を守るための “盾” として使うこと。

 それが、私にできる唯一の使命だと理解したのだ。


 そして同時に、自分がどうしようもなく一ノ瀬直也という男性に惹かれてしまったという事実を、どう自分の中で処理しようかと考えていた。

 これはそう簡単な事ではない。

 むしろ今後ずっと考え続ける事になるかも知れない……。


 翌週月曜日の午後、社内は週明けの忙しさでざわめいている。

 プロジェクト全体進捗の確認Mtg、海外投資家への定例報告、広報部のエコフェスに向けた調整。

 デスクの上のモニターには、進捗ボードが整然と並んでいる。

 けれども私は、ずっと直也さんのスケジュール表の一点を見つめたままだった。


 ――「加賀谷」さん。

 GAIALINQプロジェクトにとっての最重要ステークホルダーの一人であり、

 同時に、直也さんが信頼する “理解者” でもある。

 経産省OBとして官界や財界にも幅広いコネクションを持つ要人。


 夕方、直也さんがコートを手に立ち上がった。

「今日はこのまま加賀谷さんと会食をする」


「……ご一緒してもよろしいでしょうか」

 気づいたら、そう言葉が出ていた。


 彼が少しだけ迷うように視線を落とす。

「いや、今回は加賀谷さんと二人だけで話す方がよさそうだ」


 その言い方に、私は何かを感じ取った。

 軽い打ち合わせではない。

 

「……そうですか。では、お気をつけて」

 そう言って笑顔を作ったが、直也さんの表情にあるかすかな緊張感を感じ取った私は、少し不安を感じた。


 翌日――火曜日の朝。

 朝の全体ミーティングが終わるや否や、

 直也さんからメッセージが届いた。


『11時から、会議室A。メンバーは、亜紀、玲奈、麻里、侑里香。』


 それだけ。

 短く、そして明確な指示。

 ――前日の会合で、やはり何かあったのだろうか?


※※※


 会議室Aのブラインドが半分閉じられていた。

 窓の外には、春の陽気が漂う。

 テーブルには、まだ温かいペットボトルの緑茶が人数分だけ置かれている。


 直也さんは、到着してすぐにノートPCを開いた。

 そしていつもの柔らかな挨拶も抜きにして、淡々と話しはじめた。


「――加賀谷さんとの昨日の会合の件だ。

 洋上風力発電の話だった」


 部屋の空気が、わずかに動いた。

 その言葉を、全員が黙って聞き入る。


「経産省でも、かなり困っているらしい。

 無思慮に進めてきた連中が、今になって泣きついている。

 加賀谷さんの話では、五菱商事は撤退したい意向のようだ」


 亜紀さんが、すぐに理解の早い表情で顎に手を当てた。

「つまり、政治的な “火種” になりかけているってこと?」


「そうだね」

 直也さんは静かに頷いた。

「五菱商事が抜けるとなれば、設置予定の自治体――そしてそこを地盤にしている国会議員側が黙っていない。

 “撤退させるな” という圧力が、経産省にも入っているそうだ」


「……典型的な既得権型の再エネ案件ね」

 玲奈さんの声は冷ややかだった。

「採算性を無視して見栄と補助金で進める。どこにでもある構図です」


「そして厄介なのは――」

 直也さんは、画面の資料を指先で軽く叩いた。

「その “穴埋め” のために、GAIALINQに相乗りさせようという話が、経産省の一部官僚、更には議員サイドから水面下で出ているらしい」


「……なるほど。

国策として “ここまで順調に進展している、しかも世界的に見ても最大級の予算を持つプロジェクト” に紐づければ、失敗の責任を分散できる、と考える輩がいるわけね」

 亜紀さんの言葉には、皮肉と同時に静かな怒りが混じっていた。


 私は、ただ黙ってそのやり取りを見つめていた。

 政治の論理。

 国のメンツ。

 そして、そこに絡みつく巨大な金の流れ。


(……これが、美しい “理念” を蝕む現実か)


 加賀谷さんが “困っている” と言った理由が、少しずつ理解できてくる。

 表向きは再生可能エネルギーの推進。

 だが実際には、誰かの “保身” と “利益” が優先される。


 その一方で、GAIALINQは “理念” で動いている。

 人と地球の共存。

 技術と倫理の共鳴。


 この理念に対して、保身とか利益だけを追い求める世界は、根本から噛み合わない。


「……つまり、GAIALINQを “政治利用” したいというわけですね」

 私はそう口に出していた。


 直也さんがゆっくりとこちらを見た。

 その目には、言葉にできない複雑な光が宿っていた。


「そうだろうな」

 小さく息を吐く。

「経産省の本流は、この動きにいい顔はしていない。

 いい顔はしていないが――。

 しかし、現場レベルでは “巻き込まれる形” が現実に始まっていると考えるべきだろう」


「で、――加賀谷さんは?」

 亜紀さんが問う。


「加賀谷さんご自身は当然GAIALINQを守りたいと思ってくれているよ。

 だからこそ、こうした状況がある事を先回りしてオレに話してくれた。

 正式な通達や圧力が来る前に、何らかの備えを考えておけ、という事だよ」


 短い沈黙。

 誰もが、同じ重さを共有していた。


 このプロジェクトは大きくなりすぎた。

 そしてそれにもかかわらず一ノ瀬直也が上手く進めてしまっている。

 ――それが、すべての根本原因。


 国家が動けば、理念は容易に飲み込まれる。

 GAIALINQという名が光れば光るほど、

 その影に群がるものが増えるのだ。


(……だからこそ、私がいる)


 胸の奥に、ひとつの決意が浮かび上がる。

 合理の名のもとに、理念を守るための“盾”になる。

 この政治の渦がどれほど深くても、

 直也さんが自分を削らずに済むように。


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