第23話:教えて直也先生(新堂亜紀)
明治村の4丁目カフェで休憩したあと、3丁目を抜け、いま私たちは2丁目のエリアを歩いていた。
天気は午後になっても安定していて、春風が気持ちいい。
袴姿のまま歩くなんて初めてだけれど、慣れてくると意外と悪くない。
「ねぇ、今日さ、すごくいいチームワークじゃない?」
麻里が笑いながら言う。
「ジャンケン勝負がワークショップになってきたよね」
「というか、オフィスよりもよほど生産的なんじゃない?」
玲奈がツッコミを入れて、みんなが吹き出す。
各スポットでのツーショット撮影の合間に、玲奈だけでなく直也くんの解説が入るから、単なる観光にならないのがまた面白い。
近代建築の基本構造から関東大震災を耐え抜いた帝国ホテルの耐震理論まで、すらすら出てくる。
(理学部出身なのに、歴史建築まで語れるってどういうこと?)
思わず心の中で呟いた。
ほんと、こういう人ってずるい。
ロジックの塊なのに、話が面白いんだもん。
※※※
2丁目の奥に、古い木造校舎が見えてきた。
「三重県尋常師範学校・蔵持小学校」――。
古い木の匂い、黒板、机、窓枠。
すべてが時代モノのドラマ世界そのもの。
「わぁ……教室だ!」
保奈美ちゃんが目を輝かせる。
中に入ると、陽の光が木の床を照らしていて、まるで時間が止まっていた。
私は思いついてしまった。
「ねぇ、これさ――直也くん、先生みたいじゃない?」
丸メガネに袴、白シャツ。
どう見ても “明治の理学博士” 。
「ほら、見て。あの教壇に立ったら完璧でしょ」
気づけば、私のスイッチが入っていた。
「はいはいみんな、席に座って〜!
授業始めますよ〜!」
「えっ、なにこれ」
玲奈が笑いながらも席に着く。
「先生〜、黒板書いてくださーい!」
「直也先生〜、質問です〜!」
麻里もノリノリ。
侑里香も「……形としては整っていますね」と言いながら律儀に前列に座った。
「じゃあ、せっかくだから」
直也くんが教壇に立ち、黒板を指先で軽く叩いた。
コツン、と音が響く。
「う〜ん。
じゃあ、オレが学生時代にしていた研究の話でもしようか」
「えぇ〜、また理系の難しいやつじゃないでしょうね?」
玲奈が笑う。
「もちろん。
“量子コンピュータ”の話です」
「出た!
一番ヤバいやつ!」
「それ、激ムズテーマでは?」
と麻里。
「工学部にいた私でも、正直言えば理解はなかなか難しいテーマよ」
「まぁ、聞いてればわかるよ」
直也くんが軽く笑ってチョークを取る。
黒板に、白い線が走る。
観光でたまたま教室を覗いていた人たちまで足を止め始めた。
【0】と【1】と書いた。
「普通のコンピュータというのは、たくさんの“スイッチ”が入った機械です。
そのスイッチは「オン(1)」か「オフ(0)」のどちらか。
それをいっぱい組み合わせて、文字を書いたり、計算したりしてるんですね。
つまり「0か1か」でぜんぶ決めている、すごーく速いスイッチマシンというのがコンピューターというわけです」
次に直也くんは、その隣に、♾️(無限大)マークが描いた。
「でも量子コンピュータのスイッチは、『オンでもあり、オフでもある』というふしぎなスイッチです。だから、“0でもあり1でもある” 状態を同時に計算できるんですね」
「え? そんなことできるの? そんなのズルいよ」
保奈美ちゃんが首をかしげる。
「うん、ズルいといえばズルいね。
でも、これは自然の法則を活用しているんですよ。
たとえば、コインを投げて、空中で回ってる間って、“表でも裏でもない” よね?」
直也くんは実際に500円硬貨をコイントスしてみせた。
「なるほど、それが “同時に存在してる――ふしぎなスイッチの状態” ってことか……」
莉子が小さく頷く。
「しかもね、量子コンピュータはそのコインをたくさん同時に投げられるんです。
そして、ふつうのコンピュータは 1個ずつ調べる のに対して、量子コンピュータは全部いっぺんに考えられる!」
「全部いっぺんに!?」
保奈美ちゃんは驚いた。
「そう。
だから、たとえば『1000個のカギの中から正しいカギを見つける』という問題があったら、ふつうのコンピュータは1つずつカチャカチャ試すけど、量子コンピュータは 全部のカギをいっぺんに試して、正しいカギをすぐ見つけられるんです」
「でも、それだと、これまで使っていた暗号が全部解けちゃいますね?」
侑里香が質問した。
「全部ではないんですね」
直也くんはそう言って黒板に『公開鍵暗号』『対量子暗号』と書いた。
「少し難しい話になるけれど、現在使われている暗号化ソフトウェアの中の『公開鍵暗号』は無効化されてしまうと言われています。
ただ、この量子コンピューターが登場することを前提とする『対量子暗号』への移行は、すでに始まっているんですね」
さらに直也くんは続けた。
「これらの話しを少し難しくなるけれど、数式で示すとこういう風になります」
そう言って直也くんは黒板に書いていく。
T(N) = O(f(N))
T(N):入力サイズ N のときの計算時間
O(f(N)):おおよその増え方
1000個の鍵の中から1つの正解を探す場合
『従来のコンピューター』
T_classical(N) = O(N)
たとえば N = 1000 なら、1000回チェックが必要
『量子コンピューター』
Groverの量子探索アルゴリズムを活用する場合
T_quantum(N) = O(√N)
たとえば N = 1000 の場合:O(N) = 1000 → O(√N) ≈ 32
「一概には言えないけれど、従来のコンピューターの約30倍速く探せるということになるんです」
いつの間には観光客の人たちが結構教室の中にも入り、みんな聞き入っている。
「そんなに性能が高いなら、なんですぐ使える様にできないの?」
保奈美ちゃんが手を上げて質問した。
「そう思うよね。
実際、量子コンピューターは次世代に向けた大きな課題の一つなんです。
量子コンピューターで一番難しいのが、さっきの『コインをトス』した状態、つまり『中間の揺らぎ』に制御することなんですね。
ちょっとしたノイズが入ると、すぐ “0か1” に戻ってしまうんです。
だから研究者は、どうやってこの『中間の揺らぎ』を安定させるかを考えているんです」
玲奈が手を上げた。
「現実問題として、量子コンピューターが実用化されるまで、どれくらいかかりそうなの?」
「ここ数年で急激に研究は進展しているんです。
ただ、現実的に考えるならば、あと10年以上は最低でも必要なんじゃないかと思います。
『中間の揺らぎ』を安定させるのは、現在でも難題なんですよ」
なんか人間自身のあり方にも通じるわね。
中庸を保つことがある意味一番むずかしいのかも知れない。
直也くんの話しを聞きながら、そんなことを私は考えていた。




