第12話:名鉄車内にて(新堂亜紀)
名鉄のホームに上がると、春の風が頬を撫でた。
さっきまでのジャンケン騒動の笑い声が、まだ空気の奥に残っている。
けれど、表面上の和やかさの裏で、確実に何かの軸がずれていた。
――鏡侑里香。
その姿は、いつも通りの整然とした笑顔。
けれど、見慣れたはずのその表情が、今日はどこか不自然に見えた。
彼女は気づいている。
ペースを握っているのは、もう自分ではないということを。
言葉でも、ルールでも、ロジックでも、直也の意思をもはや制御できない。
なぜなら今、その中心にいるのはロジックなど無関係な――保奈美ちゃんだからだ。
名鉄犬山線の快速特急がホームに滑り込み、ドアが開く。
列車の床に足を踏み入れた瞬間、車内の空気がほんの少し和らいだ。
それぞれの座席に自然と分かれる。
莉子と直也と保奈美ちゃんが並び、その向かいに私と玲奈、麻里。
そして少し離れて、侑里香。
その並びだけで、いまの人間模様が如実に浮かび上がっていた。
列車がゆっくりと走り出す。
窓の外に、名古屋郊外の住宅地と春の光が流れていく。
「へぇ……こうやって見ると、名古屋って広いんですね」
保奈美ちゃんが、無邪気に窓の外を見ながら言う。
「東京よりも “平たく拡がっている” のよ。空が低く見えるでしょ?」
麻里が笑いながら返すと、保奈美ちゃんがうんうんと頷いた。
そのとき、莉子が当然のように直也の手を取った。
「ジャンケンの権利だからね、直也くん」
「……電車の中まで手を握る心配はないと思うんだけどな」
そう言いながらも、直也は振りほどかない。
保奈美ちゃんが反対の手をギュッと握る。
その笑顔は、無邪気なのにどこか絶妙に “わかっている” 。
(……この子、天然に見せておいて、ちゃんと見てるわね)
車窓の向こうを眺めながら、私は無言の侑里香に視線を送る。
背筋は伸び、表情は乱れない。
けれど、指先だけがわずかに動いていた。
それは、感情を押し殺す人の仕草。
彼女の中で “自身のロジックの正しさ” と “現実” との摩擦が起きている。
直也を中心にして動くこの小さな社会で、彼が無条件に心を許しているのは誰か――その答えは、もう見えている。
先ず何と言っても保奈美ちゃん、そして莉子だ。
ロジックの網の外にいる、心で直也と接する人たちなのだ。
侑里香はそれを、完全に理解してしまった。
理解した上で、なお抗っている。
だからこそ、彼女の笑顔は少しだけ硬い。
「ねぇ、玲奈さん」
保奈美ちゃんが声をかけた。
「犬山城って、どんなお城なんですか?」
玲奈が嬉しそうに姿勢を正す。
「いい質問ね。
犬山城はね、天守だけが昔のままに現存しているの。
江戸時代までに建てられた“現存十二天守”のひとつ。
しかも、その中でも “国宝” に指定されている五つの城のひとつなのよ」
「へぇぇ……そんなにすごいお城なんですね!」
保奈美ちゃんの瞳が輝く。
玲奈は少し照れたように笑い、続けた。
「しかもね、城跡全体が “犬山城跡” として国の史跡に指定されてるの。
日本で最後まで “個人” が所有していたお城でもあるのよ」
「すごい! 玲奈さん、先生みたいになんでも詳しいな〜」
「ふふっ、でしょーーー」
そのやりとりを見ながら、私は思った。
ロジックよりも先に、人の空気が繋がっていく。
それが “GAIALINQ外” の世界の温度なのだ。
車窓の先に、木曽川がきらめいて見えた。
その向こう、小高い丘の上に、小さな天守が顔を出す。
「あっ、見えた!」
保奈美ちゃんが指を伸ばす。
玲奈が頷きながら言った。
「そう、あれが犬山城。
現存十二天守の中でも最古。
戦国時代の空気がそのまま残ってるのよ」
直也が小さく息を吐いた。
「……理想と現実の狭間で生き残ってきた構造物ってところかな」
「難しいこと言ってるけど、要は “すごいお城” ってことね」
麻里が軽く笑い、車内に柔らかな笑いが戻る。
列車が減速を始め、犬山駅のホームが近づく。
春の光が差し込み、全員の顔を照らした。
その中で、侑里香だけが、ほんのわずかに目を伏せた。
負けを認めたわけではない。
けれど、“自分のロジックが通じない領域” の存在を、確かに感じ取っていた。
(……まだ崩れてはいない。
でも、揺らぎ始めてる)
列車が止まり、ドアが開く。
春の風が流れ込む。
犬山城への坂道が、遠くに見えた。




