第11話:浄化の儀式(神宮寺麻里)
朝、ホテルのロビーに降りると、コーヒーの香りが広がっていた。
昨日までの会議の緊張感が嘘みたいに、名古屋の街は明るかった。
「……寝不足?」
玲奈が私の顔を覗きこむ。
「そりゃそうよ。
昨日あんたたちが侑里香談義で盛り上がるから」
「だって、あれはもう “現代の内管領・長崎円喜” 案件じゃない?」
「私は “側用人・柳沢吉保” 説を推すけどね」
グラスを片手に笑っていた昨夜の会話が、まだ耳に残っている。
―― “あれは危険よ” 。
誰からともなく出たその一言で、全員が頷いた。
鏡侑里香。GAIALINQのCOO新任秘書。
完璧、冷静、正論主義。
しかも、目的のためなら、あらゆる手段を正当化する。
「ま、今日は仕事抜き。
純粋に休日でしょ」
そう言って玲奈がストレッチをしながら笑った。
そう。今日は “名古屋の休日” 。
金の時計前に全員集合――それが今朝の約束だった。
駅前の広場に出ると、すでに人の波ができていた。
桜通口の金の時計の下。
最初に見つけたのは、保奈美ちゃんだった。
白いワンピースに淡いベージュのカーディガン。
春の光をそのまま纏ったような姿。
そしてその隣――一ノ瀬直也。
保奈美ちゃんが彼の手を握っていた。
指と指を絡める、“恋人握り” 。
(……おいおいおいおいーーーーー!)
心の中で、思わず突っ込んだ。
その横で玲奈が小声で言う。
「麻里、見た?」
「見た。
ていうか見せつけてるでしょ、アレ」
「天使の皮を被った天性の小悪魔だわ」
「いや、もう小悪魔っていうより “原罪” よ」
その時だった。
背後から、規律正しい靴音が近づいてきた。
「――おはようございます」
振り返ると、鏡侑里香。
例の “秘書装備” は今日も完璧。
ベージュのジャケットにタイトスカート。
まるで公務出席に来た書記官のような顔で立っていた。
「侑里香さん、あなたも来たの?」
亜紀が冷ややかに笑う。
「はい。
プライベートでもCOOをお守りする必要がありますから」
その答えに、空気が一瞬だけ凍る。
(……出た、正論爆弾)
すると、直也が穏やかに言った。
「まぁまぁ。
せっかくの休日なんだ。
みんなで楽しもう」
柔らかい声。
けれど、その“間”の取り方が完璧すぎて、逆に誰も反論できなかった。
保奈美ちゃんはというと、ギュッと直也の手を握ったまま、にこにこしている。
彼女には緊張も敵意もない。
ただ、“好きな人の隣にいる” という幸福感しかないのだろう。
……それが一番、怖い。
そのとき、侑里香の視線が保奈美ちゃんに向いた。
焦燥と困惑が混じったような表情。
冷静な彼女の顔から、初めて “感情” が漏れた瞬間だった。
(そう。あの子が、侑里香のロジックを壊す唯一の存在よ)
昨夜の亜紀の言葉が、ふとよみがえる。
“ロジックで守る人間は、ロジックでは壊せない。
でも、愛で動く人間は、ロジックの外にいる。
だからあの子が――保奈美ちゃんの存在が、鍵になるのよ。”
その言葉が、今になってずしりと重く響いた。
その瞬間だった。
保奈美ちゃんが唐突に声を上げた。
「あの……LAのディスティニーランドの時みたいに――」
全員の視線が彼女に向く。
「直也さんと手を繋ぐ権利をかけて、ジャンケンしましょうか!」
「……は?」
全員の声が重なった。
いや、いきなり何を言い出すのこの子。
平和な観光の朝が、一瞬で戦場に変わった。
亜紀の表情がにわかに鋭くなる。
「保奈美ちゃん、それ、本気で言ってる?」
「もちろんです!
だってみんなも繋ぎたいでしょ?」
「……まぁ、否定はしないけど」
玲奈も笑いながらも、その目はもう笑っていない。
「いいでしょう」
侑里香が静かに言った。
「公平な勝負であれば、問題ありません。
受けて立ちましょう」
――おいおいおい……乗るのか、そこに。
すでに周囲は異様な緊張感。
観光地の広場で、ハイヒール美女たちと美人女子高生が真顔で円陣を組む構図。
「じゃあ、いきますよー!」
保奈美ちゃんが明るく宣言した。
その声に、みんなが手を上げる。
「最初はグー!」
直也が遠くで額に手を当てていた。
たぶん心の中で “やれやれ” と言っている。
でも、止める気配はない。
彼もわかっているのだろう。
――これは、ロジックではない “浄化の儀式” だと。
「ジャン・ケン・ポン!」
その瞬間、誰かの歓声と、誰かの絶叫が入り混じった。
春の名古屋の風が、笑い声をさらっていく。
そして――
直也の手を握ったのは、意外にも莉子だった。
「やったぁーーー! 私だ!」
保奈美がぽかんと口を開ける。
玲奈が吹き出し、亜紀が拍手した。
「……莉子、強すぎ」
私はため息をつきながら笑った。
その横で、侑里香がただ一人、無言でその光景を見ていた。
その目の奥に、感情がないようで――けれど、確かに何かが揺れていた。
“勝負の外側” で、何かが静かに崩れ始めている気がした。




