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第10話:はじめての名古屋(一ノ瀬保奈美)

 まだ春休み、金曜日の午前中だった。

 いつものようにリビングで勉強をしていたとき、スマホが震えた。


〈名古屋に来ないか?〉


 直也さんからのメッセージだった。

 今日は日帰り出張のはず――そう思っていたから、一瞬、手が止まった。


〈え? 泊まりってこと?〉

〈ああ。

 少しだけゆっくりしていくのも悪くないと思って。

 せっかくだから、名古屋観光でもしてみないか?〉


 たったそれだけのやり取りだったのに、胸の奥が熱くなった。

「名古屋」

 修学旅行で新幹線の窓から見ただけの街。

 通り過ぎる景色の中に、どこか “東京とはまた別の日本の都市” みたいに感じていた。


〈行きたい!〉

 気づけば、即答していた。


 春休みのカレンダーを見ながら、

 直也さんに買ってもらったハイブランドの白いワンピースを選ぶ。

 小さなキャリーケースに着替えを入れ、ハンドバックを用意する。

 午後には品川の新幹線ホームに立っていた。


 車窓の外を流れる景色が、まるで映画みたいに見えた。

 浜松を過ぎるころには、心臓がドキドキして仕方がなかった。

 ――この気持ちは、なんだろう。

 旅行の楽しみとも違う。

 でも、家族に会いに行くという感覚でもない。


 夕方、名古屋駅に着いた。

 新幹線を降りると、ホームの空気が少し熱を帯びていた。

 ビジネスマンたちのざわめきの向こう、

 改札口の近くで、直也さんがスマホを見ながら立っていた。


 目が合った瞬間、息が詰まった。

 ――あ、見つけた。


「直也さん!」

 気づいたら、駆け出していた。

 キャリーケースのタイヤがカラカラと鳴る。

 直也さんが顔を上げ、少し笑った。


「おつかれ。よく来たな」

 そう言って、私の荷物を自然に受け取ってくれる。

 その仕草が、なぜか心に残った。


 駅の外に出ると、ビルの隙間から茜色の光が差していた。

 街の空気が少し湿っていて、春の匂いがした。


「どうせなら、名古屋名物を食べようか」

「名物?」

「味噌かつ。

 “矢場とん” って店が有名だ」


 知らない名前。

 けれど、楽しそうに言うその声だけで、なんだかもう “美味しそう” に聞こえる。


 ホテルにチェックインして、少し荷物を置いたあと、

 ふたりで徒歩10分ほどの「矢場とん本店」へ向かった。


 暖簾をくぐると、香ばしい味噌の匂いが広がった。

 金曜の夜だからか、店内はサラリーマンや家族連れで賑わっている。


「ふたりです」

 直也さんが店員さんに声をかけ、テーブル席に案内された。


「ここ、有名なお店なの?」

「名古屋では定番らしいよ」

「観光地でごはん食べるの、ちょっとワクワクするね」

「まぁ、孤独のグルメっぽいよな」


 運ばれてきた鉄板から、じゅうっと音が上がった。

 揚げたてのロースかつに、濃い赤茶の味噌だれがかかっていく。

 香りがふわっと立ちのぼって、

 思わず「わぁ……」と声が漏れた。


「熱いから気をつけた方がいいよ」

「ふふっ。

 直也さん本当に過保護です。

 ……もうそんな子どもじゃないですよ〜だ」


 一口食べる。

 ――甘い。けど、深い。

 東京で食べるソースかつとはまるで違う。

 甘みの奥に、少しだけ苦みがあって、それが不思議に落ち着く味だった。


「美味しい……!」

「結構いけるでしょ?」

「これ、好きかも」

「よかった。

 こっちは赤だし文化だから、味噌の味が濃いんだよね」


 そんな話をしながら、ふたりで湯気の向こうで笑った。

 テーブル越しの光景が、なぜかゆっくりと時間を伸ばしていく。

 ――なんだか、夢の中みたい。


 仕事で疲れているはずなのに、直也さんの顔は少し柔らかくて、その目が、夜の灯りに溶けていった。


 味噌かつを食べ終えたあと、

 外に出ると、名古屋の夜は思ったよりも明るかった。

 街灯が低く、ビルのガラスがオレンジ色に光っている。

 東京とは違う、少し柔らかい都会の匂いがした。


「せっかくだから、少し歩いてみるか」

「うん!」


 私たちは栄の方まで、ゆっくりと歩いた。

 夜風が少しひんやりしていて、春の匂いが混じっていた。

 遠くに見える名古屋テレビ塔の光が、まるで星みたいに瞬いている。


「ねえ、あれ登ってみたい」

「夜はもう閉まってるよ。

 でも明日なら行けるかもな」

「明日……そっか、明日もあるんだね」

 その言葉だけで、胸が少しだけ温かくなった。


 そのとき、スマホが震えた。

 画面を見ると、グループチャットの通知。

 ――“GAIALINQガールズ(仮)”


 送信者は亜紀さんだった。

『明日9時、JR名古屋駅・金の時計前集合で。

 観光ルートはあとで送るわね』

 続いて玲奈さんから。

『遅刻厳禁。

 寝坊したら置いてくから(笑)』


「え?」

 思わず声が出た。

「亜紀さんと玲奈さんも、名古屋にいるの?」


 直也さんが軽く笑ってうなずいた。

「うん。

 というか、みんな。

 全員だよ。

 麻里も莉子もいる」


「……ええっ!」

 驚きすぎて、思わず立ち止まった。

「みんな東京に帰ったんじゃなかったの?」

「さあな。まあ、“偶然” ってやつだろう」

 そう言いながら、少しだけ苦笑していた。


「でも、嬉しい!」

 私は笑った。

「せっかくだから、みんなで一緒に遊べたらいいな」


 その瞬間、直也さんが小さく息を吐いた。

 笑っているようで、どこか複雑な表情。

 私はそれに気づいたけれど、深くは聞かなかった。

 ――明日は、楽しい一日にしよう。

 そう思うだけで、胸が弾んだ。


 ホテルに戻ったのは、21時を過ぎたころ。

 ツインルームのドアを開けると、柔らかい照明が部屋を包んでいた。


「今日は疲れただろ。

 シャワー、先に使っていいよ」

「うん。ありがとう」


 熱いお湯に包まれながら、私はぼんやり考えていた。

 ――今日一日、ほんとに夢みたいだったな。

 明日も、ずっとこうしていられたらいいのに。


 部屋に戻ると、直也さんはすでにベッドの上で資料を見ていた。

 いつもの癖で、最後まで仕事をしている。

「もう寝ようよ」

「ちょっとだけ確認してるだけだよ」

「……ちょっと、って言いながら、いつも一時間くらい見てるんだから」


 そう言いながら、私は自分のベッドに潜り込んだ。

 部屋の明かりを落とすと、カーテンの隙間から街の光が少しだけ差し込む。

 静かな空気。

 遠くの車の音。


 ――眠れない。


 シャワーを浴びた後、直也さんはまだタブレットを開いている。

 仕事の画面が彼の顔を青く照らしている。

 それが、なんだか切なくて、

 気づけば、私はベッドを降りていた。


「……どうした」

「なんでもない。

 ただ、ちょっと寒くて」

「暖房、上げるか?」

「ううん、いいの」


 そのまま、直也さんのベッドにもぐりこんだ。


「おいおい、それはルール違反だろ」

「……わかってるよ。

 でもね、なんか、安心するの」

 そう言うと、直也さんがため息をついた。

「ほんと、困った子だな」


 でも、その声はどこか優しかった。

 次の瞬間、肩にそっと腕が回って、私はその胸の中に引き寄せられた。


 ドクン、と心臓が鳴った。

 でも八幡平の時と同じ大きな安心感が私を包みこんでくれた。


(……直也さんとなら、もう、どうなっても大丈夫だな)


 胸の奥が、じんわりと温かかった。


「……おやすみ、保奈美」

「うん。……おやすみなさい、直也さん」


 そのまま、安心の中で目を閉じた。

 街の灯りがぼんやりと揺れて、

 春の夜の匂いが、夢の中までついてきた。


 ――明日も楽しいといいな。


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