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第9話:保奈美という存在(鏡侑里香)

 ――見なければよかった。

 そう思ったが、ほんの数秒遅かった。


 名古屋駅の構内。

 夕方のざわめきの中で、人の流れが少し途切れた。

 その瞬間、視界の奥――改札の向こうに、白いワンピースが揺れた。


 女の子だった。

 髪は陽の光を透かして、柔らかい蜂蜜色に光っていた。

 すらりとした手足、目を引く美貌、その自然体の笑顔。

 ――ただの「可愛い女の子」ではない。


 直也さんが、その子に気づいた。

 穏やかに微笑んで、手を軽く上げた。

 そして、彼女は駆けてきて――躊躇なく彼の胸の前で立ち止まった。


 距離、ゼロ。


 まるで、その場所が当然であるかのように。

 直也さんは、彼女の荷物を受け取り、自然な手つきで頭を撫でていた。

 ――その指先の柔らかさに、胸の奥がひやりとした。


 彼の表情は、セレモニーや会議で見せるどんな表情よりも穏やかだった。

 会議室で理念を語るときの知的な冷徹さも、経営判断を下す時の緊張も、どこにもない。

 ただ、一人の男性として、優しさそのものの眼差しをしていた。


 ……誰?


 最初は、そう思った。

 だが、すぐに答えは浮かんだ。


 ――一ノ瀬保奈美。

 直也さんの義妹。


 “家族” という免罪符のもとで、

 最も近くに立つことを許された存在。


 思考の奥が、ざわりと揺れた。


 私は自分の胸に手を当てた。

 心拍数が、少しだけ上がっている。


 馬鹿な話だ。

 私は鏡侑里香。

 ミス三田。

 GAIALINQフロアに配属されても、その存在感が揺らいだことはない。

 誰よりも冷静で、理論的で、美しくあろうとした。


 ――なのに。


 彼女のあの笑顔を見た瞬間、

 私は自分があの二人に “届かない場所” に立っていることを悟ってしまった。


 笑っていた。

 ただ、それだけのこと。

 けれど、彼の隣で笑うその姿は、あまりに自然で、あまりに幸福そうだった。


 私は、それを「効率」とか「秩序」とか、

 そんな言葉で割り切ることができなかった。


 ――なぜ、直也さんは、その笑顔を私には向けないのだろう。


 胸の中で、静かにそう呟いた。

 彼の目が、遠くからでもわかるほど柔らかく細められていた。

 GAIALINQの理念も、会議室の理屈も、あの一瞬には存在していなかった。


 ……“守る” とは、ああいうことを言うのだろうか。


 私は、冷静な表情を保ったまま、

 ひとつ深呼吸をしてから踵を返した。


 ここは、家族という檻の中。

 GAIALINQのCOOではなく、“ただの一ノ瀬直也” の領域。

 その結界の外にいる自分は、もう一歩も踏み込めない。


 ――それでも、退く気はない。


 ロジックで壊せない枠があるなら、

 私はロジックそのものでその枠を侵食してみせる。


 彼を守るのは、感情じゃない。

 ロジックだ。

 仕組みと秩序で彼を守る。


 そのために、私はここにいる。


 ……けれど、

 その胸の奥で、小さな痛みが残っていた。


 ホテルに戻ってから、私はすぐにタブレットを開いた。

 GAIALINQ関連の機密回線に接続し、イントラネットを開く。

 秘書室の権限で閲覧できる範囲――そこに、一ノ瀬直也の家族情報があった。


〈一ノ瀬保奈美〉

年齢:16歳。高校2年生。

五井物産GAIALINQプロジェクト最高執行責任者・一ノ瀬直也の義妹。

血縁関係なし。両親の再婚により義理の兄妹関係を形成。


 ――高校生。


 息が少しだけ止まった。

 あの柔らかい笑顔。

 あのまっすぐな視線。

 どこか危うくて、どこか完成されている。


 まだ16歳。

 けれど、彼女の立ち居振る舞いには、少女らしさよりも、既に “女としての輪郭” があった。

 それは、計算された魅力ではない。

 意識の外にある自然な“愛され方”だ。


 私は、ゆっくりと背もたれに体を預けた。

 自分の手を見下ろす。

 完璧に整えられたネイル。

 知的で清潔で、社会人として相応しい指。

 だが、あの子の指先が彼の袖を掴んだとき、

 彼は “GAIALINQのCOO” ではなく、“ただの一人の男性” になっていた。


 義妹。

 血の繋がりがない。

 だからこそ、余計に危険だ。


 あの子の年齢では、

 “好き” と “愛している” の境界をまだ区別できない。

 そして――一ノ瀬直也のような人間は、そういう感情を決して拒絶しない。

 理屈ではなく、痛みを知っているから。


 家族という名前のもとに、

 保奈美という存在が彼の心を守るのか、蝕むのか。

 私にはまだ分からない。

 ただ一つ、確信できたことがある。


 ――あの少女こそが、私の最大の敵なのだ。


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