第8話:優しい呼吸のある世界(一ノ瀬直也)
夕方の会議を終えたあと、名古屋の空はすっかり茜色に染まっていた。
栗田自動車との打ち合わせも、Archetype Roboticsの進捗確認も、予定通りに終了。
GAIALINQとしての役割はすべて果たした。
あとは東京に戻るだけ――そのはずだった。
名古屋駅の改札前。
亜紀、玲奈、麻里、莉子、そして侑里香。
全員がキャリーケースを持ち、新幹線の発車時刻を待っていた。
だが、オレは切符を取り出さなかった。
「……直也くん?」
亜紀が不思議そうに首をかしげる。
「帰らないの?」
「うん。
オレは名古屋に一泊していく」
その瞬間、侑里香の表情がわずかに硬くなった。
「それは困ります」
「いや、もう金曜の夜だ。
週末はオレのプライベートタイムだよ」
「ですが、COOの所在管理として――」
「侑里香」
オレは静かに遮った。
「GAIALINQの業務はここまでだ。
君も今日はもう上がっていいよ」
彼女の瞳が、一瞬だけ揺れた。
けれど、すぐに真っすぐオレを見返す。
「……でしたら、私も名古屋に一泊します」
「それは君の自由だけど、ここから先はGAIALINQでも五井物産でもない。
オレは――オレの家族と過ごさせてもらう」
短い沈黙。
その言葉の意味を、全員が同時に理解した。
保奈美。
空気が、ざらりと揺れた。
「……家族、ね」
麻里がぼそっと呟く。
玲奈が腕を組み、目を細める。
亜紀は一瞬だけ視線を落とし、莉子は口を尖らせた。
そして、四人が見事に揃って言った。
「「「「私も名古屋に残る!」」」」
改札前の雑踏の中、完璧なハーモニー。
通りすがりのサラリーマンまで振り返った。
オレは思わず苦笑した。
「……いやいや、君たち、明日は休みだろ?
なんで残るんだよ」
「取材があるの。
少し延泊した方が効率いいから」
玲奈がさらりと答える。
「AI事業の視察先、名古屋にもあったわ」
麻里も続く。
「偶然ね。
現地協力企業との打ち合わせ、急に入れようかしら」
亜紀が腕を組んで言う。
そして莉子が笑いながら言った。
「クリタのブランドアイコンとして、クリタ博物館でも行こうかな」
――そんな即興の言い訳、誰が信じる。
オレは肩をすくめた。
「まったく、自由すぎるな。
うちのメンバーは」
侑里香だけは、笑わなかった。
「――いずれにせよ、COOの安全管理は秘書としての責務です。
もし何かあれば、私が対応します」
その言葉に、空気がまた少し張り詰めた。
“一ノ瀬COOを守る” という名目が、再び空間を支配する。
オレは静かに言った。
「侑里香、ありがとう。
でも今日はもうその必要はないよ」
「しかし――」
「ここから先は、GAIALINQの外だからね」
言い切ると、全員が黙った。
名古屋駅の構内アナウンスが遠くに聞こえる。
その沈黙を破ったのは亜紀だった。
「……じゃあ、決まりね。
明日、集合時間をあとで連絡するわ」
「は?」
オレが思わず振り返ると、彼女はすでにスマホを開いていた。
「観光ルートくらい、私たちで決めておく。
どうせ放っておいたら、保奈美ちゃんと二人で迷子になるでしょ?」
「……余計なお世話だなぁ」
玲奈が口元を押さえて笑い、麻里が半分呆れたように肩をすくめた。
莉子は少し頬を赤らめながら、
「だって、直也くんが楽しそうにしてる顔、久しぶりに見たいんだもん」
と、言った。
――そういうことか。
彼女たちにとっても、この出張は戦いの連続だった。
侑里香の統制手腕、理念と効率の狭間。
皆、どこかで息が詰まっていたのだ。
オレは苦笑して言った。
「……わかったよ。
じゃあ、明日も各自 “自由行動” ってことで」
その瞬間、ようやく張りつめていた空気が少しだけやわらいだ。
それぞれが思い思いの表情で頷き、散っていく。
残ったオレは、静かな構内でスマホを取り出した。
『着いた?』
短くメッセージを送る。
すぐに返信。
『はい。改札のところです。』
改札の向こう、人の流れの中に白いワンピースの影。
保奈美だった。
少し幼さの残る笑顔でこっちを探している。
目が合った瞬間、ぱっと表情が明るくなり、駆けてきた。
「――直也さん!」
その声が、名古屋駅の喧噪の中でもまっすぐ届いた。
オレは自然と笑った。
「おつかれさま。
よく来れたね」
「もう。そんなに子どもじゃありませんよーだ。
……それより、名古屋って、思っていたより、ずっと大きな街なんだね」
「だろ?
保奈美が名古屋観光したことが無いって聞いたから、一度くらい見ておいてもいいと思ってね」
彼女の頭を軽く撫でた。
その瞬間、昼間の緊張も理念も構造も、全部が遠のいていく。
――理屈ではなく、優しい呼吸のある世界。
オレが守るべきものは、やっぱりこっちに決まっている。
名古屋の街の灯が、ゆっくりと二人を包み込んでいった。




