第2章(1)
『さっさと落とさないから、こうなるんだよ』
頭の中にゼノの声が響いて、俺は手を止める。
懸命に作っていた橙の光が、ふと歪んだ。
夜空に広がるはずのそれに影が射し、景色が崩れる。
息が、吸えない。
暗くなった視界の中に、チラチラと別のきらめきが見える。
海だ。高い波が、持ち上がる。
頼りない木屑にしがみつき、何かを訴える人間の姿が見える。
浅い呼吸を繰り返す。
吐き気が込み上げる。
「大丈夫ですか、ハーベストさま」
その声に、パッと景色が戻ってきた。
「体調が悪いなら、無理に進めてもらわなくても……」
組まれた足場の隙間から、ロミが心配そうにこちらを見上げている。
周りにいた数人のスタッフも、同様に見上げている。
「いや、大丈夫。もうすぐ仕上がるし……」
俺がそう断ると、みんなが微妙な顔をする。
おかしいな、以前なら喜んでくれていたはずだ。
戻ってきてから、みんなおかしい。
どうしてそんな顔をするんだろう。
唐突に始まった仕事は、唐突に終わった。
あのあと、いつの間にか美術館に戻ってきていた。
レムによると、俺は空から降ってきたらしい。
「美術館の瓦礫に突っ込んできたんです。本当に驚きました」
誰も怪我をしなかったかと聞くと、レムはなぜだか怒りを顕にした。
「ハーベストさま。私たちが、どれだけ心配したと思っているんですか……!」
声が震えていた。
次の瞬間、堰を切ったように、わんわん泣いた。
こんな風に泣く彼女を見たことがなかったから、俺はひたすら謝った。
「どうして謝るんですか! 謝らないでください……」
さらに怒って激しく泣くので、何も言えなくなってしまった。
俺が樹上にいたのは、一週間程度だったという。
「一週間でこんなことになってしまうなんて」
噂通り、樹上はとんでもないところです。
人間たちは口々にそう言っていた。
「別に、俺はなんともないが」
「なんともない人が、一月もぼんやりとしていますか!」
記憶にないんだが、美術館に降ってきた後の俺は、眠っているように無反応だったらしい。
「死んだのかと思いました。再構成体のあなたでも、亡くなるようなことがあるのかと、不安で不安で」
「ああ。描きかけの絵があったな……」
「絵なんかどうでもいいんですよ!」
あれからずっとレムは怒っている。
俺と会うたびに泣くので、たまにしか来なくなってしまった。
「怒っているんじゃないんです。気にしないでください」
ロミはそう言って、淡々と絵の状況報告をしてくれた。
「地塗りは終わっています。勝手に進めて申し訳ありませんが、下描きも終わっています」
ただ色は、手つかずで。
ロミは悩むように間を取った。
「樹上から、顔料が届きました。見たことがないくらい、美しい色合いの顔料です」
「樹上から?」
「褒美だと言っていました」
「…………」
ロミによると、美術館の修復も手伝われたそうだ。
褒美という名目で、たくさんの人間が樹上から送られてきたらしい。
彼らは懸命に美術館だけを修復し、帰っていった。
「ハーベストさま。僕たちのために働いてくださったんですか?」
「いや……」
違う。そうじゃない。
だけど、言葉が出なかった。
結果的にそうなったのなら、そうなのかもしれない。
次から、そうなるかもしれない。
俺がはっきり言わなかったからなのか。
「……そう、ですよね」
ロミもスタッフも、暗い顔をしてうつむいてしまった。
ロミの勧めで、絵の作業を再開した。
夜空に浮かぶランタンの絵。
選べる顔料の種類が劇的に増えていて、俺は色の調合にかなり迷ってしまった。
でも無心に手を動かしていると、調子が良い。
いつもより早く作業が進み、一月経つ頃には、ほとんど絵は完成の見込みが立っていた。
次の絵を何にするか。
またそれを考える日々が始まる。
トライフルとは少し違う空の色。どこかくすんでいる空を見上げながら、会議室に座らされている。
「現在は、こちらの候補が挙がっています」
調子が戻ってきたらしい、レムがバンと黒板を叩く。
「どの候補が良いと思いますか」
遠慮がちに、みんなの視線が俺に向く。
俺は黒板の写真を見る。
何の彩りもない、白黒の写真。
それがどんな色をしていたのか、想像するのはそれなりに楽しかったのだが。
今の俺には、その写真は白黒にしか見えない。
色を思い浮かべることが、できない。
「なあ、レム。お願いがあるんだが……」
「なんでしょう」
いつもと違う俺に、レムは怪訝な目を向ける。
まさか、描きたくないとか言い出さないか、心配しているのかもしれない。
俺は安心させるために、微笑みながら言った。
「次の絵は、写真じゃなくて……俺が描きたいものを描いてもいいかな」
少しだけ、間があった。
空気が凍りついたように感じた。
マズいことを言ったかな。そう不安になったとき。
目を大きく見開いて、キラキラさせながらレムは言った。
「もちろんです! そう言ってくださるのを、心待ちにしていました……!」
俺は、おかしくなってしまったのだろうか。
熱心に描いたラフスケッチを、レムが震える手で握りしめている。
「これを、お描きになりたいんですか」
本当に?
何度も確認された。
「ああ、これが描きたい」
迷いなく言いきる俺に、レムは何も言わずにスケッチブックを返す。
「あの。もしかして、ハーベストさま……」
何かを言いかけて、レムは唇を噛み締める。
「いえ、……ロミを呼んできますね」
彼女は結局何も聞かず、俯いたまま席を立ち、絵のスタッフを召集するため部屋を後にした。
スケッチブックに描かれたもの。
それは頭に焼き付いた光景だった。
立ち上がる波の壁。半壊した船。そして、こちらに向かって手を伸ばす人間……。
遥か向こうに、白い街がある。
明るい空と、透き通った海。
生命に満ちた太陽と、煌めく波しぶき。
だけど、俺がいちばん描きたかったのは、人間の顔だった。
彼はどんな顔をしていただろうか。
俺を見て、何を考えていたのだろうか。
「地塗りの色はどうしましょう」
ロミはブリキのボウルを差し出して、淡々と尋ねてくる。
「そうだな……」
俺は異様に数が増えた顔料袋の間を行ったり来たりして、思い付いた色を集めてきた。
机につき、石皿に向かう。
まずは群青。これがベースだ。
ここに緑を足していき、深みを出す。
最後に赤をパラパラと振り入れた。
油を注ぎ、ナイフで混ぜる。
「上の方は、少し淡めにしてくれ」
群青をシアンとホワイトで薄めたものも作り、ロミに手渡す。
「すぐに描きたいから、早めに乾かしてくれるか」
「はい、わかりました」
指示を終えてから、俺はスツールに座ってスケッチを眺める。
なんだか違和感があった。
こちらに向かって手を伸ばす人間。
これでは、助けを求めているように見える。
彼は、俺に助けて欲しいと言っただろうか。
助けて欲しいと言ったなら、俺は彼を救いに行ったはずだ。
違うだろう。この構図は違うだろう。
俺はスケッチブックをめくり、もう一度頭の中を整理する。
この男は俺に助けて欲しいと言ったが、それは自分のことではなかったはずだ。
恐怖に歪みながらも、水を飲みながらも、彼は俺に訴えていた。
――街を救って欲しいと。
俺は作業に没頭していた。
何度も描き直し、スケッチブックがいっぱいになってしまう。
いつの間にか、何晩も経過していたようだ。
「地塗りが終わりましたよ」
ロミがそう報告してくる。
頭を上げたときに、ふと見覚えのあるものが目に入る。
赤毛の少年。
いつか見た、癖毛の少年が、またぼんやりと絵を見上げている。
前と違う絵だった。
先日描きあげたばかりの、ランタンの絵だ。
それをなんだか興味深そうに眺めている。
俺は少し嬉しくなって、その少年に歩み寄った。
「その絵は気に入ったのか?」
振り返った少年の顔を見て、俺はふと彼の名前を思い出す。
「ライズ、だったかな」
彼は少しだけ眉を寄せてから、再び絵を見上げる。
そして――
「きみさ、どうしてランタンの色がわかったの」
奇妙な質問をされた。
「わかったというか、想像しただけだ」
「写真は白黒でしょ。想像だけで、ここまで再現できるかな」
「…………」
まるで、本物を見たことがある口ぶりだ。
この写真は、はるか昔に催されていた祭りで撮られたものと聞いている。
ランタンに願いを描き、空に向けて飛ばすイベントだったそうだ。
「君はこのランタンを見たことがあるのか?」
そう問うと、ライズは急に話を切って、体をこちらに向けた。
「どうだった? 新樹庁の仕事は」
「ああ、まあ……なんとかなったよ」
「なんとかなったって、曖昧だね」
「…………」
俺はつい押し黙る。
なんと答えたら良いかわからない。
考えを巡らせていると、ライズは手元に目をやる。
俺が持っていたスケッチブックを指差して、口を開いた。
「ねぇ、それ、何……?」
「何って、次の絵のラフだよ」
「何でそんな絵を描いているの……」
そんなにおかしいだろうか。
レムもライズも、この絵にひどく感情を揺さぶられるらしい。
俺はよく見ようとして、スケッチブックを目の前に掲げる。
そのとき、ライズが俺の手首を素早く掴んだ。
「どうしたんだ?」
厳しい顔にギョッとして、俺はスケッチブックを滑り落とす。
石床に被さる音が響いた。
「これは何」
短い質問に、俺は首をかしげる。
ライズの視線は下がらない。
スケッチブックではなく、腕の傷のことを言っているらしい。
美術館に落下したときの衝撃で、俺の体には無数の傷ができていた。
「ああ、変だろ。いつものように、治らないんだ」
人間のような傷じゃなくて、岩が割れるみたいなひび割れだ。
それが全身の至るところにできている。
「俺は再構成体だから、そのうち治る……」
「治ってないじゃない」
なんで治ってないの。
重ねて問われて、ようやくこれが“異常事態”であることが理解できた。
「どうしてこんなになるまで放っておいたの」
「ええと……」
そんなことを言われても。放っておいたつもりはないんだが。
ライズは長い息をつくと、俺の手首を握ったまま歩きだした。
「どこに行くんだ?」
彼は、答えない。
背後でロミが声を上げたが、俺は振り返らなかった。
もしかしたらライズは、俺よりも俺のことを知っているのかもしれない。
俺がおかしいことを、確信しているように見える。
それなら、任せた方が良いかもしれない。
彼は黙って市街地を歩き、一方に向かう。
日の光を遮って、キラキラと煌めく大樹の方向だ。
すこし腰が引けたんだが、腕を引かれるので仕方なく歩く。
物々しい雰囲気の門で、ライズは首から下げた札を見せる。すんなり通過した先に妙な乗り物があった。
「これはなんだ?」
「ロープウェーだよ」
バスに似た長方形の鉄塊が、張られたロープにぶら下がって動いている。
あまり手を掛けられていないらしい。塗装が剥げ赤茶けた錆びに覆われている。
その質素な乗り物に、列を為して人間が乗り込んでいる。
大荷物を持ったものが多かった。
車内には何もない。
かつては座席があったのかもしれない。それらしい跡が生々しく残っていたそこに進んで、窓際に立つ。
見上げると、山のような樹の中腹に、緑に飲み込まれながら建つ建物がポツポツと見える。
「人間は、これに乗って樹上に行くのか」
「そうだよ」
「どうして樹上なんかに行くんだ」
「仕事だから」
当たり前のように言うが、よくわからない。
樹上にはあの恐ろしい女がいるんだろ。
俺に変な球体を落とさせたあの女が。
「昔はこうじゃなかったんだ」
ライズは窓枠に肘をのせながら語る。
「あのニースとかいう再構成体が乗っとるまでは、割とうまく行っていたんだよ」
ニースが新樹庁――再構成体の組織の長になったのは、ほんの数年前のことらしい。
数年前というのは、俺がレムに拾われた頃だろうか。
そのときこの樹上では、大きな事件が起こったのだそうだ。




