第1章(3)
熱気を感じる。
立ち上る湯気が視界を悪くする。
黄金色をした熱そうな海が一面に広がり、コポコポとアブクを吐き出している。
なんだここは。見たことがない場所だ。
「あまり乗り出さないでください。落ちると助かりませんよ」
ナビが注意するので、すぐに体を引いた。
「ここは樹の内部ですよ、ご主人さま」
「樹の内部?」
「はい。この大きな樹は知恵の樹というのですが、樹の中心部はこのような異次元空間に繋がっているのです」
「はあ……」
よくわからん話だ。
いつもベルフォートから見上げていた巨大な樹。
あれは外側が樹になっていて、内側はこのように空洞になっているということか。
前方にもう一体のフライトが見えた。
ゼノにようやく追い付いたらしい。
大きな体躯をくねらせながら飛ぶのを追いかけていると、再び樹の幹が密集している場所が見えてきた。
その隙間を器用にすり抜けて、黄金色の光が弱くなっていき、ようやく爽やかな空気が戻ってくる。
パッと世界が開けた。
見えたのは青い空だ。
抜けるように青い空と、海。
旋回するフライトによって、周囲をくまなく眺めることができた。
ずいぶん広い場所だ。
鮮やかな緑が溢れる陸地が、遠くまで連なって見える。
どこだここは。
もといた世界――コンフィズリーとか言われる世界とは違う気がする。
俺の知る限り、あの世界にはあまり陸地がない。
広い海に、ぽつんとひとつ大陸があるだけだ。
それも巨大な樹に養分が吸われて、全体的にくすんだ色合いになっている。
だが目の前の世界は、空も、海も、陸も、太陽でさえ、生命力に満ちた輝きを放っている。
生きている世界だ、と思った。
あまりにも、当たり前のように。
呼吸をするみたいに、世界が生きている。
「ムカつくだろ?」
ゼノの声が聞こえた。
「え、何が?」
「無駄に広くて、なんでもある。余ってる。もったいねぇ」
吐き捨てるように言う。
俺は眉をひそめた。
別に、広くても余っていてもいいじゃないか。俺たちの持ち物ではないんだから。
「ここが“世界の裏側”ですか?」
「ああ。トライフルとか呼ばれてるみたいだよ」
軽快にくるりと旋回をして、ゼノは、
「じゃあ、任務を頑張れよ。俺は遠くから見てるから」
と言い残して去っていった。
見られているなら、真面目にやるべきだろう。
……本当に見ているのかは、わからないが。
任務というのは、この球体を落とすことだ。
頭に金具がつけられていたから、腰のベルトに雑に引っかけてある。
「ご主人さま。どのあたりに落としましょうか」
ナビに言われて、景色を眺めた。
雲の高さに俺たちはいた。
遠い足下には、どこまでも続く海と、わずかな島が転々とある。
あれはなんだろう。船かな。
海に浮かぶ独特の形の影を見つけてから、俺は次々に人間の痕跡を発見していく。
「あれは町かな。けっこう大きいな」
「はい。ナビの内部情報によると、この一帯には五十万ほどの現地人がいるようです」
それで、どこに落としますか。
重ねて問われたので、俺はちょっと待てよと口にした。
「ナビだったか。まずは、ご主人さまってのをやめようぜ」
「え? 今回の起動はあなたがされたんですよね」
通常は、起動者をそう呼ぶ設定です――などとよくわからない説明を受ける。
「俺の名前はハーベストだ。仕事を手伝ってくれるのはありがたいが、俺は君になにかを指示したりはできない」
なにをやらされるのか、よくわかっていないからだ。
ナビは首をかしげて、ポツリと呟いた。
「では、ナビが提案をするべきでしょうか。いくつかの選択肢まで落とし込むことはできます」
「いや、そういうわけじゃないんだが」
なんと言えばよいのかわからない。
特に具体的な不満や要望があるわけじゃない。
「ええと、ご主人さまと呼ぶのはやめてほしいんだ」
俺がそう言うと、ナビはパッと顔を明るくした。
「わかりました! では、ハーベストさまとお呼びします」
やけに嬉しそうに言う。
まあ、それなら良いか……。
「ナビ、君は知っているか。この球体を落とすとなにが起こるんだ」
「今回の任務の追加情報は入力されていません。ハーベストさまから読み込んだ内容しかナビは把握していません」
「俺から読み込んだ内容?」
「はい。球体をひとつ、海に落とす。そしてその後にもうひとつ海に落とす」
それが達成条件です。
ナビは明確に言いきった。
聞けば聞くほど奇妙な依頼だ。
……いや、奇妙というより。
どこかで、嫌な予感がした。
「まあ、考えても仕方がないか」
とりあえず、落としてみよう。
俺はフライトの高度を少し落とすように言う。
風の影響で、軌道が逸れたらまずい。
海に落とす。
それだけは、守るべきだと思った。
高度を落とすと、より多くの情報が得られた。
小さいと思っていた島はかなりの大きさがあったし、向こう側には巨大な大陸もある。
かつてのベルフォート並みに立派な街とは言えないが、思いの外俺たちの世界と似通った形の家々が遠目に見える。
海を走る船は古めかしい帆船だったが、かなり大きなものだ。
甲板から人間が俺の方を指差している。
「なあ、ナビ。人間から俺たちを見えなくできないのかな」
「できますよ。フライトに雲化機能が搭載されています」
やりますか、と問われたので、ああ、と同意した。
飛龍の姿が霞み、雲のように輪郭が曖昧になる。
これで人間から注目されなくて済む。
帆船が遠ざかり、足元になにもいないことを確認してから、俺はようやくひとつの球体を手に取る。
球体を構え――ほんの一瞬だけ、手が止まった。
本当に落としても良いのか。
そんな考えがよぎったが、やるしかないことには変わりない。
意を決した俺は、不気味な重量を持つそれを、眼下に向けて放り投げた。
まっすぐ落ちていく。
心配したような軌道の逸れもない。
透き通った海は、コンフィズリーの海とは比べ物にならないくらい綺麗だ。
淀んだ海で泳ぎたいと思ったことはないが、この海だったら潜ってみたいかもしれない。
こんなにも世界が広いなんて知らなかった。
人間たちが持ってくる過去の写真を、想像で描き起こしているだけの生活に、なんとなく順応していたけど。
俺にもまだ、わくわくできる世界がどこかにあるのかもしれない……。
妙な球を海に落とした。それだけで終わるはずだったのに。
そのとき、ドクン、と低い音が鳴った。
全身が震えるような、重い音だった。
足元を見る。
たぶん、落としたアレが着水した辺りだ。
奇妙に渦が巻き、再びドクンと振動が発生する。
ヤバい、と思った。
俺はとんでもないことをしてしまったんじゃないか。
そんな後悔なんて関係ないというように、ドクンと振動が響き渡る。
それに合わせて、海が揺れた。
渦を中心として、ザバンと円形の波が立ち上がり、どんどん高さを増しながら広がっていく。
「津波です! 高さ十メルクです」
ドクンとまた波打った。
同様に波が生まれ、同心円状に水の壁を作っていく。
俺はハッとして、帆船が去ったほうを見た。
波の伝播は速く、みるみるうちに海を走っていく。
「もうひとつは、いつ落としますか?」
達成条件は残りひとつです、と急かすナビ。
「いや、ちょっと待て、それどころじゃないだろう」
俺はフライトをとばして船を探した。
それはすぐに見つかった。
第一波の影響が既に出ている。
強い海流に舵を取られ、振り回されている。今にも帆が折れそうなほどに曲がっている。
そして、第二波のさらに巨大な波が迫っている。
「マズいぞ、ナビ。どうしたらいいだろう」
「どうしたら、とは?」
「船が転覆する。助けるにはどうしたらいい?」
ナビは少し考えるようにしてから、パッと顔を明るくした。
「ハーベストさま、自己錬成はお使いになられますか?」
「自己錬成?」
「はい。再構成体の能力のひとつです。体内に蓄積した錬石の魔力で奇跡を起こします」
このようにしてください、と言いながら、ナビは手のひらを広げ、合わせた両手の指を素早く擦ってみせた。
俺は手袋をつけていたが、指の部分は開いている。
同様にしてみると、固い指先が擦れたときに、チカッと火花が飛ぶ。
ぼんやりと、指先に光が点っていた。
「すぐにできるものであれば……」
ナビは俺の肩にとりついて、右手に灯る光を順番に指差す。
「白、緑、赤を順番に混ぜてください」
「混ぜる?」
「目の前で、混ぜてください」
よくわからんが、絵の具のようなものか。
人差し指の白い光、親指の緑の光、そして小指の赤い光を、キャンバスに塗りつけるように空に叩きつける。
光の軌跡が混ざるのを確認してから、ナビはこう言った。
「あの船が飛び上がるのをイメージしながら、宣言してください」
――『上昇』!
俺はその通りに言葉を紡いだ。
すると目の前の帆船は、俺のイメージした通りに大波を飛び越えて、着水した。
パアン、と激しい音がする。
衝撃に耐えられなかったのか、船から木材が弾け飛んでいた。
――助かったのか、それとも。
俺はどろどろする気持ちを抱えながら、フライトを走らせる。
船からは、人が投げ出されていた。
木屑に捕まり流されている人間が見える。
一方で、第三波が迫ってきていた。
今度はさらに大きい。船の高さの数倍はある。
「どうしよう。どうしたらいい、ナビ」
船と海上と、どちらも救うのは難しい。
先ほど教わった『上昇』では、全員であの波を越えるのは難しいかもしれない。
「あ、あの……」
微かな声が聞こえて、俺は足元を見た。
木屑に捕まっていた人間が、半分溺れながら、俺に必死で手を伸ばしている。
「今助ける……」
向かおうとして、海が跳ねた。
船の破片がフライトを掠めて向こう側に落ちる。
「ちが、違うんです」
人間の声が、途切れ途切れに聞こえる。
「船はいい。街を、……フォレスティアを救ってください」
ざぶと海が波打ち、人間の姿が消えた。
頭が真っ白になりながらも、俺はフライトを蹴り、高度をあげさせた。
「ナビ……フォレスティアと言うのはどこのことだ?」
「あちらです、ハーベストさま!」
ナビが指差したのは、大陸のほうだった。
白い建物が崖から入り江にかけて並んでいる、かなり立派な街だ。
「このままだと、数分後に第一波が到達します。被害は甚大です」
「なんだって…………」
完全に、思考が止まってしまった。
「ハーベストさま」
「…………」
「ハーベストさま、命令をどうぞ」
「………………」
「ナビから提案をいたしましょうか」
「………………」
固まってしまった俺に、ナビの健気な声が響く。
すがるように見た俺に、ナビはにこりと笑って答えた。
「ふたつめの球を落としましょう。ふたつめの球にはいくつかの効果が期待できます」
「…………」
俺は渦を巻きながら、海の中でいまだにドクドクと鼓動をするアレを見やる。
効果ってなんだよ。ふざけるな。
アレがもうひとつ増えたら被害が増すだけだろう。
「落とす順番が指定されていない以上、このふたつの球体の機能は同等と考えられます」
この効果を見たうえで、もう一度落とせるかを測っているのか。
それが「使い物になるか」の判断基準ってことか。
「とするならば、もうひとつを違う海域に落とせば、同様の効果をもたらすでしょう」
俺に人間を殺せということか。
殺せるかどうかを試しているということか。
「同じ海域に落としたなら、相乗効果により、さらに高い波や広範囲への影響が期待されますが……」
ざわざわと全身が粟立つのを感じながら、ナビの話を聞き流していたとき――
「逆もあり得ます。同じ海域、しかも同等の座標に落とせば効果は相殺されるかもしれません」
「え? 今なんて言った?」
「同じ海域、しかも同等の座標に落とせば効果は相殺されるかもしれません」
全く同じ調子で、同じ内容を繰り返すナビ。
「同じところに落とせば、消滅するってことか?」
「その可能性はあります。断定はできませんが」
「充分だ!」
俺はフライトの手綱を引き、渦の中心に向かわせる。
ドクンとはねて発生した波は、いまや何波になるのだろう。
中心部はひどく落ち窪み、海底が見えるほどになっている。
そこに黒く染まった心臓みたいなものが、根を張って気味悪く蠢いている。
俺は黙って球体を手に取った。
今度は行動が早かった。
できるだけ近くに寄り、勢いよくそれを投げつけた。
すぐにぶつかったようだ。
激しい閃光と、衝撃波に襲われる。
フライトでも耐えきれないほどのもので、俺たちは空に向かって吹き飛ばされた。
潜ってみたいとは言ったけど、そんなにすぐに叶えなくても良いだろう。
気が付くとフライトがいない。眼下には広い海。
嘘みたいに穏やかになっていたその海が眼前に迫った瞬間。
急に右足に負荷がかかり、減速する。
「ずいぶん時間がかかったじゃねえか」
ゼノの声がする。
「ま、ギリギリ合格かな」
逆さ吊りのまま、体が浮いている。
「さっさと落とさないから、こうなるんだよ」
吐き捨てるような声がして、背筋に悪寒が走る。
徐々に浮上する中で、俺は海を見た。
透き通るように綺麗な、エメラルドグリーンの水面に、木屑が浮いている。
半壊した船が見える。
それだけじゃない。近くにあった島も、岸が抉れて変形している。
ぞわぞわした。逆さまなのもあってか、気分が悪くなり数度えづくような咳をする。
しかし一方で、遠目に見えた白い街――フォレスティアは、特に被害もなく残っている。
それだけが、救いだった。
俺はしばらく意識を飛ばしていたようだ。
ぼんやりと景色が移り変わったのは記憶している。
しばらく俺は、ただ物のように、逆さ吊りのままどこかに運ばれた。




