第10章(1)
その後なんとか意識を立て直した俺は、鼠の実験に関していくつか質問をした。
俺は、キトに説明しなくてはいけないのだ。
絶望的な光景に飲まれているだけではいけない。
その知識を携えて、トライフルへと向かう。
この日は珍しく、雨が降っていた。
黄と橙の色を混ぜ、フライトまでまるごと巻き込んだ『恒常』の術をかける。
この魔法はとても便利だ。対象の周りだけだが、温度や湿度、気圧や明度など、環境条件を理想状態に固定することができる。
もちろんすべての環境変化を防げるわけではないが、軽度の環境変化――雨に濡れるのを防いだり、夜目を利かせたりくらいはできる。
通り雨なのだろうか。
ウィディアの街には、屋外で雨宿りしている人間がたくさんいて、豪雨の中を悠々と飛ぶフライトの姿を見られてしまった。
「ハーベストさま!」
聖堂前の広場に着くと、雨避けのローブを手にした人間たちが慌てて駆けてくる。
「濡れてしまいます」
俺に布を被せようとしたエリスは、俺の手前で消える雨を目撃して、息を飲んだ。
「申し訳ありません。出すぎた真似をいたしました」
「いいや、助かるよ。ありがとう」
俺がそう述べると、彼女は一歩退き頭を下げる。
かさばる布で隠され、表情は見えない。
みんながこれ以上濡れないよう、俺は早足で聖堂へと向かう。
「聖人は城のほうに出向いておりまして……」
聖議室でお待ちいただけますかと言われたので、了承した。
例の豪華な椅子に座り、色々と思案をしていると、見覚えのある顔が入室してきた。
軍服の人間たちを率いるロナルドと、エリスだ。
珍しい組み合わせだなと思ったが、椅子に座ったのはロナルドだけで、エリスはいつものように部屋のすみに立っているだけだった。
「ご無沙汰しております。正規軍総監のロナルド・ネグレイトです」
前回話したのは、数ヶ月前だったか。
あまり時間が経っていないように感じたので、その挨拶には違和感があった。
「聖人から報告があったと思いますが、正規軍は順調に戦力を拡大しております」
ロナルドはなにやら仕事の話をつらつらと述べていたが、俺は軽く頷くだけにしておいた。
中途半端に口を出して、ボロを出したくない。
キト以外から話を聞くのはすこし怖い……。
困惑の中、しばらく話に耳を傾けていたのだが、彼は突然、話を切り上げる。
「あの。この機会に、と言っては何なのですが、ハーベストさまに個人的なお話があるのです……」
何故だか眉間にシワを寄せ、声をすぼめてそのようなことを言い出した。
「…………なんだろうか」
キトのいないところで、あまり話をしたくない。
しかし、なにも言わないのもまずいだろう。
ロナルドは、キトの片腕として働いてくれている、フォレスティアを動かす重要人物のひとりだ。
ぞんざいに扱うことは賢明でない。
俺の反応に、ロナルドはパッと顔を明るくする。
そして両手を合わせながら、妙な話を始めた。
「フォレスティアの王統教会には、古くから巫女という立場の娘がおります」
それは見目が麗しく、身分が高い娘から選ばれるらしい。十代の終わりから二十代の半ばという最も美しいとされる期間を神に捧げ、神事を担当するのだという。
「その巫女がですね、ちょうど空席になっておりまして……不肖ながら、数ヶ月前に我が娘エリスを立候補させました」
彼が入り口に佇むエリスを示すと、彼女は綺麗なお辞儀をする。
「本来ならば、たくさんの候補の中から選んでいただくべきなのはわかっております。しかしひとまずはエリスを第一候補としていただきたく……勝手ながら、身の回りのお世話をさせておりました」
ああ、なるほど。だから最近はこの娘が俺の出迎えをしていたのか。
よくわからないシステムだが、昔からの習慣なら、あまり騒ぎ立てない方がいいだろう。
俺はわずかな違和感を覚えながらも、緩く頷いた。
「それで、お願いと申しますのが……」
ロナルドは、妙に猫なで声だ。
普段のキビキビした言動からは考えられない気持ち悪さだ。
俺はすこし眉をひそめつつ、言葉を待つ。
「もし可能であれば、エリスを正式な巫女としていただきたいのです」
正式な巫女?
別に、勝手に決めたらいいんじゃないのか。
どうしてそんなことを聞かれるのか、わからない。
俺が沈黙をしていると、ロナルドは続ける。
「正式な巫女とするには、儀式が必要です。神の妻となる、神聖なる儀式です」
ん? なんだかおかしなことを言っていないか。
俺は内心、冷や汗をかく。
「ハーベストさまにお伺いしたいのです。我が娘エリスを正式な妻として迎える儀式を執り行う許可をいただけるかどうか……」
「ちょっと待ってくれ」
俺はたまらず、口を出してしまった。
「キトライドを呼んでくれないか」
もう限界だった。
これ以上、俺だけで話を進めてはいけない。
「なんだよ、急に呼び出して」
早馬を飛ばし、連れ戻されたらしいキトが迷惑そうな顔で入室してきた。
雨は弱まっていたのか、彼の衣服はそこまで濡れていない。
俺とロナルド、エリスの姿を順番に視線に収め、なにやら予見したように眉をひそめる。
「で、なに? 何の話?」
軍事の話じゃないよね? と軽く確認してから、彼はどっかりと自席に着いた。
「実は、巫女の件について相談しておりました」
「巫女? ああ、エレンがこのあいだまで就いてた役職?」
ああ、なるほど。空席になっていたのは、前任のエレンが結婚して退いたからか。
俺がそう納得していると、ロナルドが狼狽しながら彼を制する。
「キトライドさま。ハーベストさまの御前でそんな……」
「こいつはそんなの気にしねぇって」
なあ、ハーベスト! と言われたが、何の話かわからないので首をかしげる。
「で、なんなの? エリスを次の巫女にって言ってた件?」
「はい、そうです。せっかく本物の神の使いが降臨しているのに、巫女が不在などあり得ないとの声が高まっております」
「ああ、そうね。みんなそう言ってるね」
で、あんたの娘? とキトは不躾にエリスを指差して言った。
「ちょうどいい年頃だからって、ねじ込むのは職権乱用じゃない?」
「しかし、この数ヶ月、エリスはハーベストさまに献身的にお仕えしました。特にご不満もなく過ごされていたと聞きます」
そうでしょう? ハーベストさま、と強く迫られ、俺は硬直してしまう。
「ほら、困ってるから。わかる? これ、困ってる顔」
「それはキトライドさまの妄想ではないですか。私には困っているようには見えません」
「いや、困ってんのよ。ハーベスト、ちゃんと言ったら?」
「…………」
目の前でふたりが揉め始めたので、俺はどうしたものかと考えた。
エリスは確かに、色々と便宜を図ってくれていた。
なかなか名前は覚えられなかったが、この数ヶ月、淡々と俺の窓口を務めてくれていたのは覚えている。
「エリスに対して、特に不満がないのは正しい……」
そう語ると、目の前のふたりは正反対の表情を浮かべた。
「ほら、キトライドさま。ご迷惑じゃないと仰っています」
「おい、ハーベスト。なんで勘違いされるようなことを言うんだよ……」
キトが頭を抱えていたので、なにかまずいことを言ったらしいと悟った。
「で、なに? エリスを巫女にすんの?」
「はい。是非とも務めさせていただきたい」
「別にいいんじゃねぇの? 神事を担当するだけでしょ?」
「いいえ。せっかく本物の神の使いが降臨しているなかで、形式的な行事だけというのはもったいないですよ」
「……おい、まさか、ロナルド……」
キトはひどく顔を歪めていた。
続く言葉を予期しているようだった。
「巫女とは神の妻のことを指しますでしょう? だから今回の巫女は、正式にハーベストさまと婚姻関係を結ぶことにして……」
「いや、待て、待て、なに言ってんのオッサン!」
キトは席を立った。俺の違和感は正しかったらしい。
彼は机に両手をつき、前のめりになってロナルドに抗議をした。
「こいつにそんな提案したの??」
「はい。しました」
「何て言ったの?」
「キトライドを呼んでくれと」
「ああ、そういうこと……」
キトはようやく事の顛末を把握したようで、脱力したように席に崩れ落ちる。
「あのさ。駄目だよ、ロナルド。こいつはそういうのがわからないんだ」
「なにを仰います。神は全知全能です」
婚姻が叶えば、エリスもフォレスティアも、正しい道へと誘われるでしょう……キラキラした瞳でそんなことを述べる。
「いいや、わからないんだよ。聞いてみろよ」
キトは俺に向き直って問い掛ける。
「ハーベスト。婚姻ってわかる?」
「婚姻?」
「結婚することだよ。あのエリスって娘と」
俺はすこしムッとした。
そのくらいはわかる。人間のことが全くわからないわけじゃない。
「結婚とは、人間同士が結ぶ契約のことだろう。好いたもの同士が家族となり、共に暮らす。……一生を添い遂げる契約をする」
淡々と語る俺に、ふたりはポカンとした顔をしていた。
「俺は人間ではないから、その契約は難しい。それに、エリスというそちらの女性とは、知り合って間もない。まだその契約を結べるほどの信頼はお互いにないだろう」
そうだろう? と俺はエリスに向けて尋ねた。
彼女は目を見開いてこちらを見つめ、困惑した顔をしていた。
「…………」
「………………」
キトとロナルドも黙っている。
なんだよ、どうして黙っているんだ。
「……申し訳ありませんでした。段階を踏むべきでしたね」
「だから言っただろ。こういうやつなんだ」
「…………」
なんだろう。なんだか反応が腑に落ちない。
彼らは俺を無視して、ふたりで話し合いを始めた。
「それでは、巫女というのは神の妻候補、という形でどうでしょう」
「候補ってなんだよ。何人か立てるの?」
「いいえ。巫女は神職ですよ。なれるのはひとりだけです」
「だからさ、職権乱用だって思われるって。なりたいやつは山ほどいるんだ。たぶん揉めるよ?」
「だからこそ、ハーベストさまの許可を求めていたんです」
ロナルドはもう一度俺を見ようとして、キトに制された。
「さっきの発言でわかっただろ。このお方は純潔で高貴なんだ。娘を捧げようとかいう低俗な発想のオッサンとは話もしたくないんだって」
なあ、と問われたので、俺はすこし困った。
そこまで言わなくても良いだろう。
急な展開に驚いたが、巫女というのが古くからの文化であるなら、尊重してやるべきだ。
多くの国民が望んでいるんだろう?
候補というなら、別に契約を結ぶわけでもない。
形だけのものであるなら、ある程度協力してあげてもいい……。
俺はエリスに目を向けて、思考が止まる。
入り口に佇む彼女は、俯いている。
微かに体を震わせて、唇を噛んでいるようにも見える。
「…………」
俺はそこでようやく気が付いた。
さっきからロナルドもキトも、エリスの意見を聞いていない。
まるで彼女がここにいないもののように、勝手に話を進めている。
彼女の人生に関わる話だぞ……。
俺は思案し、口を開く。
「先ほども言ったが、婚姻契約は人間同士で行うものだから無理だ。しかし――巫女というのが俺の窓口を務めてくれる役割なのなら、引き続きエリスにやってもらいたい」
彼女は落ち着きがあり、印象が良かった。いつも狼狽えている教主なんかよりも安心感があった。
とはいえ、俺の意見だけで決める話ではない。
「もちろん、エリスが嫌というなら、無理は言わないが」
「………………」
「……どうだろうか」
しんとする室内に、不安が込み上げた。
なぜみんな黙っているんだ。
せっかく意見を出したのに。
キトは眉間にシワを寄せ、ロナルドはぽかんと口を開いたまま固まっている。
肝心のエリスは。
こちらに向けてまっすぐと、熱のこもった視線を送っていた。
「あ、あの、私……」
彼女はしばし喉をつまらせる。
キトとロナルドが、彼女に視線を送る。
みんなから注目を受けた彼女は、何度か浅い呼吸を繰り返したあとに、口を開く。
「精一杯お仕えします。よろしくお願いいたします……」
苦しそうにそれだけ告げて、彼女はポロポロと涙をこぼした。
あれ、おかしいな。
まずいことを言ったか?
どうして泣いているんだ。
俺はひどく動揺してしまった。




