第8章(4)
黒板を見ながらぶつぶつと独り言を言い始めたヴェーラーに別れを告げ、俺は旧樹院に戻った。
メンテナンスが終わったらしいナビを回収し、ポートに戻る。
俺は次に新樹庁に向かった。
くず錬石の保管庫に立ち寄り、ナビに尋ねる。
「キトに最適な錬石はこの中にあるかな」
「キトライドですか? ええと、彼は赤と紫の属性なので……」
ナビはふよふよと部屋の中を飛び回り、二つの石を選定してくれる。
「イグノクラフトと、イーニディクラフトと呼ばれるものです。余分な黄色成分が入っていますが、体内に貯蔵できないだけなので大丈夫です」
「ありがとう」
その辺りに捨て置かれた小さな袋に、それらを詰められるだけ詰める。
「キトライドはまだ食べられませんよ?」
ナビは不思議そうに眺めている。
「この先、食べられるようになるかもしれない」
「……そうですね」
俺の仮説を、ナビは否定しなかった。
美術館に戻ると、すっかり暗くなっていた。
美術館はいつも、眠らない俺のために鉱石ランプを灯してくれている。
入り口には向かわずに、俺はフライトの側でウォッチを呼んだ。
約束とは違うが、キトの様子が気になったのだ。
すこし罪悪感を覚えたが、彼のことをもっと知るべきだと思った。
ぼんやりと浮かんでくる景色。
これは夜空かな。キラキラ瞬く星々と、ぽっかりと空に開いた丸い月が見える。
時計塔がある建物の、テラスのような場所。
彼はさわさわと吹く夜風に髪の毛を揺らしながら、ぼんやりと街を眺めていた。
明かりはほとんど灯っていない。深夜と言える時間帯かもしれない。
どうしてそんな時間に起きているのか。
人間は眠らないといけない時間じゃないのか。
なんだか胸騒ぎがした。
先日見た光景を思い出す。
配られた昼食を受け取らないキト。
その時も、違和感を覚えたじゃないか俺は。
――ちゃんと気にしてあげてよ。
ライズの言葉が頭に浮かんだ。
レムの事務所に足を向ける。
真夜中だから、さすがに誰もいない。
支度を手伝ってくれる人はいない。
仕方なく、ひとりで準備をする。
ナビにすこしだけ手伝ってもらいながら、いつもの正装に袖を通す。
「呼ばれていないのに、トライフルに向かうんですか?」
「ああ」
別に、構わないだろう。
元よりそういう関係だっただろう?
夜景を眺めるキトに遭遇できる保証はない。
しかし、出会えるはずだと信じて、そこに向かう。
確証はないが、いつも出発時と同じような時間帯に到着していた気がする。
昼に樹をくぐれば、昼に到着する。
夜にくぐれば、夜に到着するはずだ。
延々と続く黄金の海を通りすぎた後、ひとまず期待通りの景色に到達する。
目の前に広がるトライフルの空は暗かった。
キラキラと瞬く星々。夜空までも、コンフィズリーのものとは比べ物にならないほど美しい。
「キトは今日も外に出ているかな」
フライトは当然のようにウィディアに進路を取る。
街は静まり返っていて、空を見上げるような人間はいない。
ほとんど音を立てずにフライトは街のスレスレを飛行し、やがて目的の長塔の真上にたどり着く。
緩やかに屋根に着地した。
例のテラスは、この真下にある。
暗闇に目を凝らしてみると、人影が見える。
キトだ。やっぱり今夜も外に出ていたのか。
俺はフライトの鞍から立ち上がる。すこし移動し、足元を見下ろす。
夜風の道が見える。強めの風だが、問題はないだろう。
着火し、緑と橙の光を混ぜて、虚空に足を踏み出す。
これは『飛翔』という術だ。ある程度の距離なら宙を舞うことができる。
ゼノに「着地をうまくしろ」と言われ、身に付けたものだ。
全身を風に押されるのを感じながら、イメージを浮かべる。
テラスに静かに降り立つ俺の姿を。
ふわりと宙に浮く感覚がある。
イメージ通りに緩やかに着地し、辺りを見回した。
広いテラスにはほとんどものがない。
キトは手すりの真ん中あたりにもたれ掛かっていて、じっと前を眺めている。
彼の向こうには広場が見え、その先の通りには街灯が整然と並んでいる。
大して面白味がない、寂しい景色だ。
興味を持って眺めているとはとても思えない。
彼に向けて、ゆっくりと足を進めた。
「……何しに来たの」
俺の足音に気付いたのか、キトは振り返らずに問う。
「眠らないのか」
俺はあえて質問を被せ、彼のすぐ隣まで歩を進めた。
「…………」
キトはすこし顔を歪めている。
馴れ馴れしく、真横の手すりにもたれ掛かったのが気に入らなかったのか。
しばらく間を作った後、ぽつりと答える。
「最近、眠れねーの。毎日じゃないけど」
あんたは眠らないの? と聞かれ、俺は頷いた。
「俺たちは眠らない。たまに意識が飛ぶことはあるが、毎日は眠らない」
「へぇ。夜はいつもなにしてんの?」
「昼も夜も同じだ。特に時間帯を気にしたことがない」
キトはまた、へぇ、と気のない返事をした。
「それで、何しに来たの」
つれないやつだな。
心配で見に来たというのでは駄目なのだろうか。
俺は雑に掴んできた二つの袋を前に突き出す。
「頼まれていた飴だ。それと、もうひとつ違うのも持ってきた」
「違うの?」
彼はそれらを受け取り、とりあえず飴の入ったほうを足元に置く。
「錬石だ。飴ではなく、石だ。俺たちが食べているのと同じものだ」
「…………」
手元の袋を確認し、キトはひどく口元を歪める。
「……なんでこんなもんを、俺に?」
「そろそろ同じものが食べられるんじゃないかと思って」
キトは錬石をひとつぶ手に取る。黒い塊に、細かい赤い石がついたやつだ。
彼はそれにかじりつく。ガリッと嫌な音がする。
「……硬い」
彼の歯は、まだ俺たちほど尖っていない。
だから噛めないのかもしれない。
「ナビ。キトも俺たちと同じような体に変化するんだよな?」
「……はい。個人差はありますが、そういう設計です」
「いつ石を食べられるようになるんだ?」
「それは……」
ナビはなぜか言葉につまり、キトのほうを見た。
彼はひどく怖い顔をして、こちらを見ている。
「同じような体になるって、どういうことだ……?」
あれ……? このことは、まだ伝えていなかったか?
俺は記憶を探ったが、その辺りは曖昧で思い出せない。
キトをひどく不安にさせたらしいことを察して、慌てて口を開いた。
「キト。女神の力を使うには飴が必要だが、それはお前がまだ人間の体だからだ。その内に俺と同じような体になり、石が食べられるようになる」
飴による燃料補給は本来のやり方とは違う。
人間の体で食べ続けると負荷が高い。
俺と同じような体になるまで、あまり女神の力を使わない方がいい。
俺は懸命に、そのような内容を彼に伝えた。
「飴は食べると体が辛くなるんだろう? 気が付いてやれず申し訳なかった。今からでも摂取を控えて――」
キトは静かにこちらを向き、鋭い目線で刺してくる。
俺が言葉に詰まると、彼は低い声で言った。
「この力を使うなと言うならさ……あんたが常駐してくれんの? この街に」
「…………」
「いつでも、必要なときに、俺にとって最適なことをしてくれんの?」
それは、どう考えても無理な相談だ。
頷くことはできない。
「じゃあ、辛くても食べるしかねーじゃん。これがないと回らねーんだから」
現状を見てから言いやがれ、と彼は吐き捨てて、錬石の入った袋も足元に下ろす。
長い沈黙が流れた。
キトがそれほど無理をしていると知らなかった。
女神の力も飴も、彼の役に立っているのだと思っていた。
彼が自分を削りながら、地位を固めていることを知っていたら、もう少しなにかしてやれることがあったんじゃないか……?
考えを巡らせていると、キトは長い息をつく。
「俺が最近眠れないのは、人間の体じゃなくなり始めてるから?」
ひどく苛立った声で、問われた。
「俺はもう、あんたと同じ体になりはじめてるの?」
「…………」
キトが飲んだ球体のことは、正直よくわからない。
しかし単純に考えたらそうだし、その方が良いと考えていた。
「はっきりとはわからないが、たぶんそうだ……」
「わからないってなんだよ。他人事だと思って」
俺の答えにキトはひどく顔を歪め、先ほどかじりついた石をこちらに示す。
「あんたが食べてるのって、これだけなの?」
「ああ。俺は錬石しか食べない」
「腹減らねーの?」
「減ることもあるが、あまり気にならない」
「眠らないし、食べないしで、あんたらは一体毎日なにやってんの?」
「…………」
一言では言い表せない。
日々なにかと忙しくしている。
絵を描いているだけでも暇はなかった。
今はそれにキトの世話が乗り、ほとんど休む暇がない。
俺の沈黙をどう捉えたのかはわからない。
キトはため息をつき、石を足元の袋に放る。
そしてこちらに体を向け、不思議なことを口にした。
「その手袋、外してよ」
手袋?
俺は指先の開いた手袋をつけていた。
大した依頼じゃないので、躊躇なく右手の手袋を外す。
キトは突然、俺の手首を掴んで引き寄せ、手のひらを上に向ける。
そして、自分の手のひらをその上に重ねた。
「…………」
じわりと熱を感じる。
温かい手だ。
あまり人間には触れたことがないが、こんなに温かいのか。
キトはしばらく俺の様子を観察していたが、不意に口を開く。
「あんたさ、人の体温ってわかる?」
「ああ、わかるが……」
君の手は温かいなと感想を述べたが、キトは沈黙を返す。
すこしの間があった。
何か悪いことを言ったのか、不安になっていると、彼はまた口を開く。
「じゃあ、これは知ってるか?」
俺を見下ろす彼の目。
どこか異質なものを感じて、心臓がひりつく。
「……冷たいんだぜ、あんたの体。まるで石みたいに……」
その答えは、予想外のものだった。
俺の背筋を、冷えた夜風が吹き抜けた。
冷たい。石みたい。
……あまり考えたことがなかった。
人間と再構成体の違いについて。
時間の流れかたが違う。そのせいで、いくらか価値観が違う。
その程度だと、漠然と思っていた。
もとは人間だったらしいし、人間のように振る舞うこともできるし……たいした違いはないんじゃないかと思っていた。
しかしキトは、あまりにも冷たい目でこちらを見下ろしている。
石みたい。
それはつまり、生きていないということ。
彼は俺を生き物として見ていない。
彼は俺を、不気味な石の人形として見ているということだ。
「ちょっと前だったら、俺もね……別に石になってもいいと思ったかもしれないんだけど」
キトはあっさりと俺の手を離し、夜景に目を戻して、話を続ける。
「俺は孤児だったんだ。あんたも知ってるあの男、最初に聖人って呼ばれてたやつ、あいつの家に引き取られたんだよ、雑用としてさ」
いい家だったんだ、みんな仲良くしてくれたしさと彼は思い出を語る。
でも――
彼は言葉を切り、微かに熱を込めた瞳で月を見上げた。
「本当の家族って、ちょっと違うんだよ。俺さ、こんなの生まれて初めてなんだよね」
彼は星空を瞳に映しながら語る。
帰ったら、お帰りなさいと迎えてくれる。
今日の出来事を話し、何気ないことで笑い合う。
温かい料理が用意してあって、一緒に食べる。
おいしいと言ったら、はにかんでくれる。
「エレンの手料理は旨いんだ。わざわざ自分で作ってくれるんだぜ。俺の好みの味を把握してくれててさ……」
しばらく夢見心地で語っていたのに、急に下を向く。
「最近、味がわかんねーのよ。口ん中ぼろぼろで、胃も痛いし」
それは飴の食べすぎだ。人間の体が壊れかけてしまっている。
再構成体化が進んでいる以前の問題だ。
しかし彼は深刻な顔をして続ける。
「わかるかな、そういうの。一緒のもの食べて、一緒の布団で寝て、そういうのがいいんだよ。あんたはそれがわかんないんだろ?」
――だから、あんたにはなりたくない。
彼はバッサリと、俺にそう言った。
「…………」
俺はうなだれる。
再構成体になれば解決すると思っていたが、そうではなかったらしい。
そんな簡単な話ではない。
彼は人間のままで、女神の力を使いたい。
そして、今までと同じようにエレンとの幸せな時間を過ごしたい。
……その願いを叶えてやることは、難しい。
球体を飲んだ後の変化を、止めてやる方法がわからないからだ。
もしこのまま、完全に再構成体のようになってしまったら……。
キトは俺を恨むのだろうか。
「…………」
何も言えなくなって、俺は黙り込んでしまった。
俺が役に立たないことを悟ったのだろう。
「飴ありがとう。用事が終わったなら、もう帰ってよ」
キトはそう言い放ち、俺に背を向ける。
断絶されてしまった。
そう思い、切なさに押し潰されそうになっていたところ。
「ハーベストさま。『再生』を使いましょう。傷を治しましょう」
ナビが突然、そのような提案を投げてきた。
「『再生』? もちろんいいが……」
傷を治せば、味がわからない状態が改善されるかもしれない。
しかし、根本的な解決には至らない。キトの不安を払拭することはできないだろう。
しかしナビは淡々とキトに問いかけた。
「あなたが眠れないのは、本当に再構成体化しているからですか? あなたがものを食べられないのは、本当に再構成体化しているからですか?」
再構成体化すれば、肉体的な痛みはないはずです。
痛みで不調が現れているなら、それは人間としての不調です。
――そう語るナビに、俺はハッとする。
確かにそうだ。冷静に考えたらそうだ。
キトはナビに視線を向ける。
瞳に、光が戻っていた。
ナビはさらに語る。
「再構成体化は不可逆ですが、その変化はあなたの意思により影響を受けているように見えます」
あなたの変化はあまりにも遅い――不思議なことですが、あなたが人間であり続けたいと考えているから、そうなっているのかもしれません。
彼女はそう述べて、俺たちを驚かせた。
「だからハーベストさま。彼に『再生』をかけましょう」
ナビは改めて提案をする。
「飴でぼろぼろになろうと、ハーベストさまはあなたの希望する機能が維持できます。『再生』は生命体にしか効果がない――つまり、治せるのは人間の部位だけだからです」
少なくとも現時点では、飴での運用と、人間的な生活の両立は可能です。
ナビはキッパリとそう告げた。
「と、とりあえず使ってみよう」
俺は着火し、『再生』の色――黄、白の順で光を混ぜる。
彼が不調を訴えた、口の中と胃の痛み。
それが治癒するように祈りながら、手のひらで育てた光を彼に向けた。
彼は喉に手を当て、深い呼吸を何度かする。
「どうだ?」
そう問うと、みるみるうちに顔が緩んでいく。
泣きそうなのを堪えている、子供のような顔だった。
「……痛くない」
「そうか。眠気はどうだ?」
「ちょっと待って」
彼は息を吸いながら、ゆっくりと目を閉じる。
しばらくしてうっすら目を開き、こちらを向いた。
「……眠れるかも」
その表情は、心から安堵したものに見えた。
わずかに赤みを帯びた目が、俺に向けられる。
「さっきは悪かったよ。なんかひどいことを言っちゃったな……」
「いいや、気にするな。本当のことだし……」
「治してくれて、ありがとう」
キトの声は震えていた。
本気で感謝してくれているのが伝わった。
胸が温かくなった。
冷たい石のような俺にも、体温が宿ったかのような錯覚を覚えた。
「ごめん、ちょっと寝てみるよ」
キトはそう言って、ふらふらと建物のほうに歩を進める。
振り返らずに、手をひらひらと振る。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ……」
手を振り返す。
こちらを見てくれないが、なんとなく気持ちは伝わった気がした。
…………。
俺はしばし、無言で立ち尽くす。
彼の期待に応えることができた、と思った。
……もしかしたら。
俺が彼に、本当の意味で寄り添うことができたのは、これが初めてのことだったかもしれない……。
そこはかとない幸福感に包まれながら、俺は――キトが消えていった扉を眺め続けた。




