第4章(4)
まだ日は落ちていない空に、奇妙な雲が出ている。
耳鳴りのような異音がかすかに聞こえる。
「なんだよあれ」
キトが独りごつ。
山沿いの住宅地が、黒い煙にまかれている。
逃げてきた人間が、状況を伝えようと叫んでいる。
――人が襲われている。
俺は反射的にフライトに向かって走った。
手綱を手に、背にかけ登る。
鞍に座って手綱を引こうとすると、肩に圧迫感がある。
振り返るとすぐ後ろにキトがいて、ギョッとした。
「危ないぞ、君」
「連れてってくれよ」
あそこに行くんだろ?
彼は黒い空を示す。
「しかし、危険だ」
「あれは俺を狙っているんだろ?」
……そういうことか。
キトはナビの話を信じ、あの雲がここにこないようにと考えている。
「俺があっちの山の方に行ったらどうかな」
街から離れた、なにもない山を示す。
そう考えるのは自然だが、あの化け物が街から離れるとは考えにくい。
あれはキトを狙っているかもしれないが、キトだけを殺そうとしているわけじゃないだろう。
街の人間をまきこんだ方が、効く。
やつらは、そういう思考回路をしている。
「ひとまず様子を見よう」
しかし、可能性がないわけではない。
俺はキトの提案に従い、雲を誘導できるか試してみることにした。
フライトは羽ばたき、空に飛び上がる。
不思議な力が働いているのか、彼の背中では振り落とされる危険はあまりないらしい。
キトは尖った鱗を持ちながら、不安定な姿勢で街を見下ろしている。
「虫か? でかい虫が群れてる」
彼が言う通り、黒い羽虫が雲の正体だった。
街に入り込んでいるのと、空を漂っているのと、その行動は一様でない。
ひとまず空にいるものに牽制をかける。
フライトの速度を上げ、雲に突っ込ませる。
素早く虫は拡散し、手応えは皆無だ。
何度か繰り返してみたが同じだった。
虫はほぼこちらに興味を示さない。住宅地の真上に位置取り、ただ空を漂っている。
「駄目だ。全くこっちを向かない」
「俺が狙いじゃなかったのか?」
「…………」
ちゃんと言っておいた方が良いだろう。
俺はキトに向き直り、手にした麻袋を突き出す。
「これは君ひとりの問題ではない。すでに、この街すべてが目をつけられているんだ……」
なんと言えば伝わるのか。
俺から言ってやれることは何だろう。
頭を悩ませながら、言葉を続ける。
「守りたいものがあるなら、これを飲んでくれ、キト。そうすれば少なくとも君自身が、やり方を選ぶことが出来る……」
もう始まってしまったことだ。
俺たちには止められない。
できるかぎり被害を抑えることしかできない。
力を持てば、少なくとも選択肢を増やすことができるのだ。
俺の思いが伝わったのか、彼は麻袋を受け取った。
「飲むかどうかは、俺が選ぶ」
「それでいい」
「街に降りたい」
「わかった、行こう」
住宅地は羽音に満たされていた。耳を塞ぎたくなるほどのものだった。
傾いてきた日を遮るように黒い雲が陣取っていて、ひどく薄暗い。
地面にポツポツと黒い山が見える。
虫がなにかに群がっているのだろう。
フライトを強く羽ばたかせ、突風を起こす。
すると黒い山はあっけなく吹き飛び、倒れている人が顕になった。
地面が近くなると、キトは飛び降りた。
駆け寄って容態を確かめる。
俺は両手を擦って着火し、ナビに問いかけた。
「この光で、どこまでやれる?」
「『発雷』はやめておいたほうがいいです。しかし、『閃光』なら数発は撃てると思います」
『閃光』とは、人差し指の白い光だけで撃てる錬成術らしい。
光を作るだけの簡単なものらしいが、ないよりはましだ。
吹き飛ばされた羽虫が再び迫ってくる。
フライトにもう一度風を作らせたが、同時に悲鳴が聞こえてきた。
建物に隠れていた人間が出てきたらしい。
「た、助けてください!」
「天使様……」
「龍の後ろまで走れ!」
叫びながら、キトは落ちていた物干し竿を手に虫の群れに突っ込んでいく。
無茶をする。
俺は焦りながら、白い光を三回空に塗りつける。
「『閃光』――!」
手を前方にかざすと、まばゆい光が辺りを満たした。
幸運にも、黒い虫は光が苦手のようだった。
一瞬で物陰にかくれてしまい、キトは棒を空振りして終わる。
その間に、たくさんの人間がフライトの尻尾にへばりついていた。
「前の雷は使わねぇの?」
キトに問われ、言葉に詰まる。
「あれは撃てない。今の状況では……」
「…………」
責められるかと思ったが、キトは考えるように周囲を観察している。
「さっきの光、あの建物の中にぶちこめるか?」
「ああ、できるが」
「頼む」
不思議な依頼だったが、俺は悩まず『閃光』を撃つ。
建物から虫が飛び出していくなか、キトはそこに飛び込んでいった。
縦横無尽に飛び交う羽虫。背後の人間を守るために、フライトを羽ばたかせる。
これでひとまず進行は食い止められるが、いつまでもこうしてはいられないだろう。
日が落ちたらおそらく、空で光を遮っている虫たちが街へ降りてくる。
やつらが今、この付近にしか出張っていないのは、日の光が苦手だからだ。
突然窓ガラスが割れる。何かが放り出されている。
それは薪だった。
キトが建物から薪を次々と投げている。
彼は火のついた薪となにやらぼろ切れを手に飛び出してきて、こちらに向かって叫ぶ。
「みんな、火を持て! あの虫は光が苦手だ。火を持っていたら襲われない!」
「――!」
人間たちは、即座に駆け出す。
積まれた薪をとり、キトが渡す布を巻き付ける。
油が染みているのか、すぐに布に火は移る。
ものの数分で、辺りは明るい光に満たされる。
「逃げ遅れたやつを探せ! 生きているやつはみんな連れ出せ!」
早くしろ、と言いながら、キトは自らが率先して街路を駆け出していった。
見事な統率だった。
人間は老若男女問わず、キトに従い人助けを始める。
俺にもなにかできないか、と考えていると、遠くから指示が飛んだ。
「ハーベスト! とりあえず聖堂まで人を運んでくれ!」
怪我人からだと言われ、俺は運ばれてきた人間を何人か乗せて空へと飛び立つ。
「ああ、天使様……なにが起こっているのですか」
聖堂に着くと、立派なローブを着たやつらが相変わらず狼狽えていた。
「邪なるものが暴れている。怪我人を頼む」
短くそう言って、人間を下ろす。
俺は何度かそんな輸送を繰り返した。
しかし、これではいけない。
それはキトにもわかっているだろう。
暗くなっていくなか、薪が燃え尽きていく。
それでも、打つ手がない。避難を進めるしかない。
もどかしく思っていたそのとき。
異様な光景を目にした。
女子供を優先して避難させた現地で、残った人間たちが暗闇を見つめ立ちすくんでいる。
いつからそうなっていたのか。
状況が変わっていた。
くすぶる薪を掲げるキトの前に、黒い塊が蠢いている。
羽虫が、その塊に集まっていく。
どんどん膨れ上がるそれを前に、キトは呆然と立ち尽くしている。
「なにが起こっているんだ」
俺は呟いた。
するとナビが肩に乗ってきて、のんびりした口調で告げる。
「大サービスですよ。キトライドは頑張ったので、仕上げの大チャンスが与えられたようですね」
――よかったです。
ナビは何故だか安堵の息をついていたが、俺には全く状況が掴めない。
大サービスってなんだよ。
誰がそんなものを与えたんだ。
人が死んでいる。
化け物がまだ目の前にいる。
その状況でどうして、安堵の息なんかつけるんだ。
キトは火が消えた薪を放った。
力が抜けた体で、化け物を見上げている。
いつの間にか、手にはあの球体が握られている。
彼はそれを弄びながら、何かを思案しているようだった。
どう見ても手詰まりだ。
夜が迫るなか、火が消えそうだ。
羽虫の数は減っていない。街の人すべてに身を守る術を教える時間はない。
俺は発雷を撃てないし、閃光すらもう撃てないかもしれない。
フライトで何人かは運べるかもしれないが、それで何が変わるというのか。
――起死回生の手が必要だ。
同じように判断したのだろう。
キトは球体を掲げ、空を仰ぐ。
すこしだけ躊躇いをみせたあと、決意したように口に運ぶ。
何が起こるかわからないままに――彼は怪しいその物体を、飲み込んでみせた。
俺は思った。
あいつはすごいやつだ。
俺とは違う。
英雄とは、あいつのようなものを指すのだろう。
そして、英雄には英雄らしい物語が与えられる。
キトは呻き声をあげ、体を折り、地に膝をつく。
次の瞬間、人間たちがどよめきの声をあげる。
彼の髪が、輝きを放った。
淡いグリーン。
既視感のある色だった。
深い色合いの髪色が、明るい色彩に変わる。
あまりにもインパクトがあった。
ナビが急に動き出す。キトのもとに飛んでいく。
「女神の力を授けます、キトライド」
ナビに応じ、彼は両手を擦り合わせる。
人差し指にだけ、赤い光が灯る。
「三度空をなぞり、こう告げなさい」
言われた通りに、空をなぞり、宣言する。
――『烈火』。
その瞬間、黒い塊は燃え上がる。
残った虫たちは、吸い込まれるようにそこに集まっていき、引火していく。
激しい炎をあげ、空を赤く染める。
夕焼け時はもはや過ぎていた。
しかしあたりは夕日に照らされたように赤く染まっている。
歓声が上がる。
松明を空に投げる人間たち。
勝利に沸く人間たち。
何故だか、以前描いたランタンが上がる夜空を思い出す。
あれは、人間たちが願いを書き、空に向けて飛ばすイベントだったと聞いた。
天に届けば、神さまが願いを叶えてくれるらしい。
……願いは叶った。
超越的な力で、魔物は退治された。
キトがこちらを振り返る。
俺は自然と、鳥肌が立ってしまった。
炎を背負った彼の姿は、あまりにも神々しかったから――
俺はつい自分の立場を忘れ、沸き立つ人間たちに混ざり、感動に身を溺れさせていた。




