第19話 鍵束事件編③ ―― 白紙の追記(前編)
その契約書は、綺麗だった。
―― いや
綺麗すぎだった。
机の上に置かれたそれは、
丁寧に扱われてきたことが分かる。
折れも、汚れもない。
ただ。
「……ここが、白紙なんです」
依頼人の老紳士が、震える指で示した。
指に嵌められた赤い石が、キラ、と光を返す。
契約書へ視線を落とした東峰の息が止まる。
そこだけ。
そこだけが。
本当に、何もなかった。
文章の流れからして、明らかに不自然な空白。
書かれていたはずのものが、
“最初からなかったように”消えている。
「昨日、ここに……条件を追記して、署名も、しました」
老紳士は言う。
はっきりとした声だった。
「相手方も、納得していた。……そういう、話だったんです」
東峰は、手袋をした手で、契約書を受け取る。
紙の質感。
インクの乾き。
署名の筆圧。
嘘ではない。
―― けれど
「相手方はなんと?」
「そんな約束はしていない、と」
問いかけた東峰の言葉に、
依頼人から、短く、答えが返る。
「……それどころか」
老紳士は、目を伏せた。
「その時間のことだけ、覚えていない、と言うんです」
東峰の指先が、わずかに冷える。
どこかで。
聞いた話だった。
アキは、まだ触れていない。
窓辺から、静かに契約書を見ている。
耳が、ほんの少しだけ、後ろへさがっていた。
ワタリガラスは、壁に寄りかかり、こちらを見てはいる。
けれど、動く気配はまるで無かった。
「副所長」
顔をあげ、東峰は、小さく呼ぶ。
その声に、やっとアキが、ゆっくりと歩み寄る。
靴音が立たない。
手袋越しの指先が、白紙の部分に触れる。
ほんの一瞬。
その動きが、止まった。
東峰は、それを見逃さなかった。
パサリ、と羽音が、室内に響いた。
「……空白がありますね」
アキの声は、いつも通りだった。
「物理的な欠損ではありません」
一拍。
「ここは、上書きの痕跡です」
する、と契約書の空白部分を、滑らかな手付きでアキがなぞる。
老紳士が、顔を上げた。
「……上書き?」
「はい」
アキの指先が、契約書から離れていく。
「この契約は、有効です」
その一言に。
東峰の思考が、一瞬止まる。
「ただし」
少し固くなったアキの声が続く。
「新しい選択がなされています」
老紳士の手が、わずかに震えた。
「……どういう、意味ですか」
アキは、答える。
「一度成立した内容が、
別の“結果”によって置き換えられています」
東峰の胸が、ざわつく。
置き換え。
―― どこかで聞いた言葉。
「そんなことが……」
老紳士は、言葉を失う。
東峰は、思わず口を開く。
「でも、それって……」
言葉が詰まる。
思考が、追いつかない。
「昨日の約束は、どうなるんですか」
ようやく出た、問いかけは。
「相手が忘れているのは……あの鍵のせいなんじゃ」
空気が、わずかに揺れた。
アキは、東峰を見ない。
「“被害”かどうかを決めるのは、
私たちの仕事ではありません」
静かな声。
否定でも、肯定でもない。
「ですが……」
東峰は、言葉を探す。
見つからない。
どう言ったらいいのかが、
わからない。
でも。
―― それでも。
「忘れてしまったら、責任は――」
「東峰」
「……っ、はい」
「“忘れた”のではありません」
アキの声は、変わらない。
一拍。
「“選ばれなかった昨日”に、なっただけです」
その言葉は、静かに落ちた。
重く。
深く。
東峰の胸に沈む。
老紳士は、たぶん、理解はできていない。
ただ。
何かが、取り返しのつかない形で、く失われたことだけは分かっているようだった。
「……では」
かすれた声。
「この契約は」
アキは、答える。
「有効です」
変わらない。
「現在の内容において」
そこに、救いはない。
ただ、事実だけが置かれる。
東峰は、指先を握りしめる。
そのときだった。
ワタリガラスが、静かに口を開いた。
「宝石がすり替わるとき」
バリトンの、低く、身体に響く声。
「割れた音がしない場合がある」
東峰が、顔を上げる。
「記憶も、同じです」
短く。
「嘘はない。
これは、ただ、欠けているだけだ」
空気が、ひどく静かになる。
東峰は、契約書を見る。
白紙の部分。
そこに。
確かに、何かが“あった”はずなのに。
今は、ない。
ただそれだけ。
東峰の中で、何かが軋む。
「……副、所長」
声が、かすれる。
「これ、は」
言葉が続かない。
止めるべきだったのか。
止められたのか。
分からない。
ただ。
「……それでも」
絞り出す。
―― 言わなくちゃ、前に、進めない気がした
「止めるべきだったんじゃないですか」
静寂。
アキは、答えない。
ただ。
しっぽが、ゆっくりと一度だけ揺れた。
それが。
この場所の答えだった。
お読みいただきありがとうございます。
感想、評価をいただけると嬉しいです。




