第20話 鍵束事件編④ ―― 白紙の追記(後編)
老紳士が帰ったあとの事務所には、
静かな、
けれど、確かな重さだけが残っている。
扉を見たまま、
東峰は、まだ動けずにいた。
「……副所長」
声が、うまく出ない。
「どういう……、どうして……」
言葉を探す。
けれど。
見つからない。
アキは、答えない。
代わりに。
ワタリガラスが、ゆっくりと視線を上げた。
「東峰くん」
いつもよりも、低い声。
「契約書は、嘘をついていない」
ほんの、一拍。
「ただ、欠けている」
東峰は、息を呑む。
「……じゃあ」
思考が、繋がる。
「元は、ちゃんと……」
「均等だった」
ワタリガラスが、短く言い切る。
「利は、釣り合っていた」
東峰の胸が、ざわつく。
それならば、
「どうして……あんな形に」
答えは、すぐには来なかった。
代わりに、アキが、静かに言う。
「歪みが、増幅されているからでしょう」
東峰が、顔を上げる。
「……歪み……? ……増幅?」
「はい」
じ、っと依頼人が出ていった扉を見つめたまま、アキが続ける。
「依頼人は、何かを所持しています」
その言葉に。
東峰の記憶が、引っかかった。
指先。
老紳士の、手。
「……指輪」
思わず、口に出る。
アキは、わずかに頷く。
「本能を強くする類のものでしょう」
短く、静かな説明。
「人も、獣人も関係なく」
事実だけを伝えるアキの言葉に、
東峰の背筋が、冷える。
視線が、床へと下がっていく。
思い出される。
あの契約書。
あの空白。
「じゃあ……」
言葉が震える。
「無理に、サインを……?」
アキは、肯定もしない。
けれど、
否定も、しない。
「可能性はあります」
それだけだった。
東峰の指先が、強く握られる。
そのとき。
ワタリガラスが、静かに続けた。
「そして」
低い声。
「その“結果”を、認められなかった側がいる」
東峰は、顔を上げる。
「……相手方、ですかから」
「そうです」
一拍。
「だから、鍵を、使った……?」
空気が、凍る。
東峰の呼吸が止まる。
「……一度じゃない」
ワタリガラスの声は、静かだった。
「二度だ」
東峰の視界が、揺れる。
「……二度」
「約束した記憶」
「確認した記憶」
そして。
「自分で選んだという自覚」
すべて。
「消した」
東峰は、言葉を失う。
それは。
逃げではない。
ただ。
“選ばなかった”だけだ。
「……そんなの」
声が、かすれる。
「責任は、どうなるんですか」
誰に向けた問いかも、分からない。
ただ。
アキが、答える。
「残ります」
短く。
「形を変えて」
東峰は、息を呑む。
「けれど。
覚えていない以上、責任を取れない」
アキは、続ける。
「それが、結果です」
静かに。
ただ、事実として。
東峰の中で、何かが崩れる。
正しさも。
間違いも。
どこにも、置けない。
「……止めるべきだった」
思わず、漏れる。
「あの時、奪ってでも」
その言葉に。
初めて。
アキの視線が、東峰に向いた。
オッドアイが、わずかに細められる。
「それも、選択です」
否定しない。
けれど、
肯定もしない。
「ですが」
アキの言葉は、続く。
「君は、選びませんでした」
決して、責める声色ではない。
けれど、
ヒュッ、と
東峰の喉が、詰まる。
「それは」
アキの耳が、
ほんの僅かに、動いた。
「誰のものでもない」
ただ、静かに。
「君が選んだ“誠実さ”の結果です」
言葉が、落ちる。
重く。
逃げ場のない言葉が、
東峰の中に沈んでいく。
しばらくの沈黙のあと。
奥から、静かな足音がした。
所長だった。
ゆっくりと歩み寄り、机を見る。
そして。
扉の向こうへ、視線を向けた。
「鍵は」
静かな声。
「まだ、残っているね」
ワタリガラスが、わずかに頷く。
「一本」
所長は、小さく息を吐いた。
「選択を消す道具は、
「人のそばに置いてはいけない」
その言葉は、判断だった。
解決ではない。
ただ。
距離を置くという選択。
アキが、小さな箱を取り出す。
所長は、何も言わず、
そこに、見えない“何か”を納めるように、
ゆっくりと手を動かした。
淡い、緑色の光が、所長の手を包む。
光が収まると同時に、蓋が、閉じられる。
音は、しなかった。
東峰は、その光景を見ていた。
何も言えずに。
ただ。
震えたまま。
「……僕が」
ようやく、声を絞り出す。
「もっと早く……」
東峰の声も、身体も、震えている。
言葉が、続かない。
所長は、何も言わない。
ワタリガラスも。
ただ。
アキが、静かに言った。
「顔を上げなさい、東峰」
視線は、東峰を見ていない。
窓の外を、
夜のほうを向いている。
「震えたままで構いません」
「その重さを抱えて、
そこに立ち続けなさい」
静かな声。
「鑑定士の夜は、
そうやって続いていくものです」
東峰は、ゆっくりと顔を上げる。
視界が、少しだけ揺れていた。
それでも。
目を逸らさなかった。
そのとき。
アキが、いつもの言葉を口にする。
「――さあ」
静かに。
「鑑定の時間です」
その声は。
何も変わっていない。
だからこそ。
東峰には、少しだけ遠く感じた。
―― 同じ場所にいるはずなのに
届かない距離が、確かにそこにあった。
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