第18話 鍵束事件編② 選ばれなかった鍵
最初に異変が起きたのは、朝だった。
東峰が事務所の外扉を開けた瞬間、
いつもとは違う空気が、わずかに流れ込んできた。
重いわけではない。
冷たいわけでもない。
ただ、何かがずれているような気がする。
「……おはようございます」
誰にともなくそう言ってから、東峰は首を傾げた。
鍵を開けた記憶が、少し曖昧だ。
手応えはあった。
確かに回した。
でも、鍵は、あけただろうか。
どうしてだか、その部分が思い出せない。
気のせいだろう、と自分に言い聞かせ、事務所に入る。
すでに、事務所の電気はついていて、誰かが出勤しているようだった。
―― 先輩たちが来ているなら、鍵が開いていた可能性もある。
けれど、
―― そんなミスをするだろうか。
事務所の裏口は、保管庫があるため、誰かが出勤していたとしても、入退室時には必ず、鍵をかけるのが、この事務所のルールだ。
自分とは異なり、先輩たちが、そのルールを忘れるとは思えない。
―― でも。
開けた記憶が、無い。
そんな事を思いながら、鍵の保管庫へとむかう。
ふと。
ワタリガラス先輩が、宝石棚の前ではなく、今日はカウンターに立っていることに気がついた。
鍵の保管庫にある『東峰』のラベルが貼られている場所へ、事務所の鍵をさげる。
事務所にいる間は、この保管庫に鍵をかけておく。
それも、この鑑定事務所の数少ないのルールのひとつだった。
いくつかの鍵を視界にいれながら、東峰な慣れた手付きで鍵の保管庫の扉をしめた。
「おはようございます、先輩」
「おはようございます」
返事はいつも通り心地よい低音だったが、
その声は、ほんの少し、いつもよりも低い。
「……何か、ありましたか?」
東峰がそう尋ねると、先輩は首を振った。
「いいえ。ただ、確認です」
「……確認、ですか?」
「はい。ところで、東峰くん。さきほど、君は何の鍵で、外扉を開けましたか」
東峰は、一瞬言葉に詰まった。
「……通常の、事務所の鍵で……開けたんだと思います……」
「そのあとは?」
「そのあとは、いつもの通り、事務所の内扉用の…………」
「確かに?」
「……すみません……どうしてだか、記憶が定かではなくて……」
「構いません」
言葉尻りが小さくなりながら謝った東峰に、ワタリガラスはさらりと答える。
「もう一つ、聞いても?」
「はい」
「いま見たばかりの鍵の保管庫については、いかがですか? はっきりと、どこに、何があったのか、覚えていますか?」
「……どこに、なにが……ですか?」
「ええ。ありましたか?そこに」
じ、と何かを探るような目つきをカウンターへ向けたまま、ワタリガラスは東峰に問いかける。
その視線につられるように、東峰もカウンターを見るものの、何も置かれてはいない。
けれど。
「……先輩、鍵束が」
言いかけて、止まる。
鍵束。
依頼人が持ち帰って行った、あの鍵束。
―― あのときは、確かに、七本だった。
ふいに、そんなことが頭によぎる。
「え……? や、おれ、いま、なんで鍵束……?」
自分の口から出てきた『鍵束』という言葉に、東峰が困惑した表情で首をかしげる。
「やはり、君も、でしたか」
「……え?」
ぽつり、と呟いたワタリガラスが、顔色が無くなっていく東峰に、「落ち着きなさい」と、彼の肩をぽん、と叩く。
「君が鍵束に触れていないことは、想定済みです」
「……先輩、でも」
「東峰くん」
ワタリガラスは、追及などはしない。
代わりに、カウンターの下から小さな箱を取り出す。
「念のため、こちらをご覧ください」
箱の中には、鍵が一本だけ入っていた。
見覚えがある。
この前の鍵の相談、あの束の中にいた、鍵だ。
「……これは」
「今朝、保管庫の外にありました」
東峰は、思わず息を呑んだ。
「え、どうやって、中に……?」
「窓の鍵も、外扉の鍵も、かかっていました」
「では……誰かが……?」
「いえ。恐らく、“出てきた”のでしょうね」
ワタリガラスの言葉の意図は、つかめない。
けれど、事実を述べているのは確かだった。
コツン、コツン、と規則正しい足音がする。
―― この足音は、副所長だ。
そう確信した東峰が視線を動かす。
アキが、来客用玄関から現れる。
いつもより歩調がゆっくりだ。
「……やはり」
低く呟いて、箱の中の鍵を見る。
「ここに、来ましたか」
「ええ」
アキの言葉に、ワタリガラスが答える。
アキの耳は、ほんの少し下を向いていた。
「まだ、誰も選んでいないようですね」
「でしょうね」
そんな二人の二人のやりとりについていけず、東峰は慎重に口を開いた。
「その……この鍵は、誰かに使用されたわけじゃ、ないんですか?」
恐る恐る、問いかけた東峰に、アキがほんの少しだけ目尻をさげて、首を振る。
「逆です」
アキは続ける。
「この鍵は、まだ”誰にも”選ばれていない」
「なら、なぜ……?」
「この鍵は、“選ばれること”で、記憶を一つ奪う」
「……はい」
「言い換えれば」
アキは、東峰を見る。
「選ばれなかった鍵は、奪うものがなかった」
「……奪うもの……?」
「ええ。だから、待っていたんです」
ちら、とアキの視線が鍵へ移動した。
その意味が、ゆっくりと染みてくる。
「誰かが、
“選ばなかったこと”を後悔するのを」
東峰は、背筋が冷たくなるのを感じた。
「……後悔、ですか」
「ええ」
アキの言葉に、ワタリガラスが続けた。
「記憶を失う覚悟がなかった人。
選ばなかった自分を、正しいと思い続けた人」
「その人のところへ……?」
「いいえ」
先輩は、首を振った。
「まだ、です」
そのとき、事務所の扉が、軋んだ。
誰も触れていない。
風もない。
鍵穴のあたりで、小さな音がした。
ガチャ、と。
東峰は、反射的に振り返った。
「……今のは」
アキの耳が、ぴくりと動く。
「二つ」
「副所長?」
「鍵の音が、二つしました」
アキが静かに言った。
「つまり……」
「鍵は、もう一本、外に出ているね」
所長が、奥から姿を現す。
いつの間にか、そこにいたかのように。
東峰は、喉が渇くのを感じた。
「……どこへ」
所長は、扉の向こうを見る。
「選ぶ人のほうへ、です」
沈黙。
アキが、箱の蓋を閉じた。
「―― さあ」
アキの、いつもの声だ。
「鑑定の時間です」
ただし、今のそれは
“鑑定をする”という宣言ではなかった。
ここには、
何かの気配が、もう、
すぐそこまで、来ているような気配だけが、
残っていた。
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