第15話 何も鑑定しない日のこと
その日は、朝から静かだった。
依頼の予定は一件も入っていない。
珍しいことではないが、事務所の空気が、少しだけ緩んでいる。
アキは出勤してからずっと窓辺に座り、外を見ている。
特別なものは何もない。通りを歩く人間と獣人、遠くに走る路面電車。
ただ、それを眺めている。
「今日は、本当に何もしないおつもりですか」
ワタリガラスが、宝石用の布を畳みながら言った。
「ええ」
アキは視線を外さない。
「鑑定は、しません」
「昨日も、していませんでしたね」
「昨日は、気が向きませんでした」
「今日は?」
「今日は、気が向きません」
同じ答えだが、理由は違う。
けれど、ワタリガラスは、指摘しない。
ほんの少しの間のあと、ぱさり、ともう一枚の宝石用の布を取り出す。
東峰は、少し迷ったあと、おずおずと口を開く。
「……副所長、その……最低限の書類整理だけは……」
「それは、します」
即答だった。
「鑑定をしない日と、仕事をしない日は、別です」
「……承知いたしました」
東峰は、少し安心したように頷く。
しばらくして、ワタリガラスが言った。
「副所長」
「何でしょう」
「君が鑑定をしない日は、
どうしても、事務所が軽くなる」
アキは、尻尾をわずかに動かす。
「重さは、依頼が持ち込みますから」
アキの答えに、東峰がほんの少しだけ息を呑む。
「ええ。だから、今日は軽い」
意外にも、そう答えたのはワタリガラスだった。
たたみ途中の布を机に広げたまま立ち上がったワタリガラスは、棚の奥から、小さな箱を取り出した。
「……先輩、それは?」
東峰が、興味深そうに尋ねる。
「欠けた宝石です」
蓋を開けると、透明度の高い石が、ほんの少しだけ欠けている。
「鑑定不能、という意味ですか?」
「いいえ」
ワタリガラスは、静かに首を振る。
「鑑定はできる。ただし、
“使い道がない”と分かる」
アキが、初めてこちらを見る。
「捨てないのですね」
「捨てません」
即答だった。
「宝石は、役に立たなくなっても、
嘘をつきませんから」
東峰が、小さく息を吸う。
「……嘘をつくのは、人、ということですね」
「ええ」
ワタリガラスは、箱を閉じる。
「だから、私は宝石が好きだ」
アキは、少しだけ目を細めた。
「私は、嘘をつくもののほうが、
嫌いではありません」
「そうでしょうね」
「意外です……」
アキとワタリガラスのやり取りに、東峰が思わず呟く。
「東峰」
「……っ、はい」
ふいにアキに名前を呼ばれ、東峰が思わず立ち上がる。
そんな彼に、アキは瞬きをしたあと、耳が静かに動いた。
「嘘をつく、ということは」
アキは、窓の外に視線を戻す。
「まだ、選び直せる」
「選び、直せる」
「はい」
「無かったこと、はじめに戻すことはできない。けれど、選び直すことはできます」
アキの言葉が、東峰は両手を見やった。
ワタリガラスは、その様子を見て、何も言わずに頷く。
沈黙が、心地よく続く。
東峰は、その空気を壊さないように、書類を整え始める。
しばらくして、ワタリガラスが、ぽつりと言った。
「……もしも」
その声に、アキがちらり、とワタリガラスを見る。
まるで、アキが見るのを分かっていたかのように、ワタリガラスは、アキをじっと、見つめる。
「もし、君が、
鑑定を続けられなくなったら」
東峰の手が、一瞬止まる。
二人を見ることが、出来ないまま、数秒の時から刻まれる。
アキは、すぐには答えなかった。
けれど。
「そのときは」
やがて、静かに言う。
「先輩が、鑑定してください」
ワタリガラスは、少しだけ驚いたように目を瞬かせる。
「宝石以外は、専門外ですよ」
「構いません」
「随分、雑な信頼だ」
「鑑定は、
正確さだけで、成り立つものではありませんから」
ほんの少しだけ、アキの耳が動く。
「……副所長。それは、どういう……」
「日常、という意味です」
思わず尋ねた東峰に、アキは、いつもと変わらぬ声色でさらりと答える。
「鑑定ができない日でも、事務所は回る。事務所が回ることも、日常のひとつです」
「……ああ」
なるほど、とワタリガラスは、バリトンの声色でくつくつと低く笑った。
「それが、君の鑑定ですか」
なるほど、と、ワタリガラスは確かめるように、もう一度、呟く。
昼を告げる鐘が、遠くで鳴った。
依頼は来ない。
だが、事務所は、ちゃんと在る。
東峰は、静かに思う。
――事件だけが、全てじゃない。
鑑定士は、
日常の、ここにいるのだと。
当たり前だ。
―― けれど、そういう事だ。
そんなことを思う東峰の横顔を、ワタリガラスが見つめる。
「……東峰くん」
「っ、はいっ!」
アキに続き、ワタリガラスの声でも立ち上がった東峰に、ワタリガラスは「……立たなくてよろしい」とほんの少しだけ苦笑いをこぼす。
「すみませ……」
「君は、石が割れる瞬間を見たことはありますか?」
「石が割れる瞬間、ですか?」
ええ、とワタリガラスが静かに頷く。
「石が割れる前は、驚くほど静かになる」
「……え?」
「だからこそ、何もない日は、きちんと過ごすんです」
「……先輩?」
「今のは、ただの戯言で構いません」
そう言って、ぱさり、と広げたままの布をワタリガラスはたたみ始める。
「ただ、なんとなく」
―― 予感がするだけです
ワタリガラスの声が、1段と低く事務所に響く。
アキは、再び窓の外を見る。
何も起きない日を、
きちんと過ごすために。
「―― さあ、鑑定の時間です」
何でも無い日でも、
選ぶことは、続いていく。
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